
既知と未知の間を行き来する音楽
――『Vermillion』に収録された曲には様々な方向性が見られると思いますが、たとえば“Sister, Sister”や“Class Fails”では、民謡を思わせるシンプルでわかりやすいメロディーに、あなたならではの洗練された、この世のものとも思えないようなハーモニーが付けられていて、そのコントラストが魅力的ですね。
「スコットランドのラウ(Lau)というバンドのメンバーでもある、フィドル奏者のエイダン・オルークと一緒にやっていたプロジェクトで、彼が弾くダイアトニックな単旋律のメロディーに凝ったハーモニーを付けることに興味を惹かれていました。そういった抽象化の作業の経験が、新作の曲にも反映されていると思います」
――メシアンの音楽でも、ごくシンプルなメロディーに凝ったハーモニーが付けられている場面がよく見られますね。
「メシアンは聖歌や讃美歌、詩編といった古い宗教音楽や民謡にも大きな影響を受けていたと思いますが、僕も聖歌や讃美歌を5年間、毎日のように聴いたり歌ったりしていました。みんなが覚えたり歌ったりできるようなメロディーがあれば、みんながよく知っている部分に訴えるのと同時に、凝ったハーモニーでみんながよく知らない部分に訴えるという、二重の手段が使えます。聴き手のほうは、耳慣れた部分に安心感を覚えるのと同時に、耳慣れない部分に多少の違和感を覚えることで、より繊細な聴き方ができると思います。
リズムの面でも同じことをやっていて、聴き手が常に安心感と違和感の両方を覚えることで、頭の中にはある種の疑問が生じます。そして、疑問を持ちながら聴くことによって、音楽体験がより興味深いものになると考えています」
――ジミ・ヘンドリックスの“Castles Made Of Sand”も、その考え方を取り入れたカバーというわけですか。
「ええ。既知の要素と未知の要素の間に疑問が生じて、それに対する答えを模索しながら聴いてもらおうというわけです」
――既知の要素は、聴き手があなたの音楽世界に入っていく時の案内役にもなりそうですね。アルバムでは“Sandilands”や“Waders”のように、わりとトラディショナルなジャズのピアノトリオという印象の曲も聴かれますが、あなたはジャズのピアノトリオについてどんな考えを持っていますか。
「僕が初めて聴いたジャズのピアノトリオのアルバムはオスカー・ピーターソンの『Night Train』(63年)で、これが僕にとってのピアノトリオの基準になっていると思います。
ただ、あのバンドでは目的の音楽を安定して実現するために各メンバーの役割が決まっていたのに対して、現在のピアノトリオではその役割分担がより自由で流動的になっていると思います。つまり、誰が前に出て誰が後ろに回るかというのも交代制のようになっていて、そこに緊張と緩和の交代が起こっているわけです。たとえば、演奏していてジェイムズとペッターが何かのアイデアを出してくれば僕が引っ込み、ペッターがアイデアを出してくればジェイムズが引っ込み……という具合に、3人が常にバランスを取りながら演奏を進めていきます。それぞれの発想が同じ方を向くこともあるし、互いにぶつかり合ったりすることもありますが、お互いの信頼関係があるので方針が定まります。目的はあくまでも、3人で一緒に音楽を創り上げていくということですから」
――なるほど。では、楽曲の部分はどの程度まで書かれている、あるいは決まっているのでしょうか。
「あらかじめ書かれているものはそれほど多くなくて、メロディーとベースラインぐらいです。あとの部分は流動的で、インプロバイズされたものです。曲の構成もインプロビゼーションによって決まる場合が多いですが、特定の構成を繰り返す曲が多くて、繰り返すたびに少しずつ変化していくような演奏になっています。その意味では古典的なジャズの形式を踏襲しているわけですが、抽象化の度合いがかなり強くなっています」
ECMの枠を越える才能
――あなたのECM作品とは大きく異なる、ドイツ人ドラマーのベニー・グレープ率いるムーヴィング・パーツやスクエアプッシャーなどのアーティストとも共演していますが、彼らからはどんなきっかけで誘いがかかったのでしょうか。
「トロイカという、リズムを強調したラウドなロック……ロックという感じじゃありませんが、そのバンドでキーボードを弾いていたので、ベニーやスクエアプッシャーはその演奏を聴いて、声をかけてくれました」
――あと、ジャンゴ・ベイツのプロジェクトにも参加していますが、彼とはどんなつながりがあるのでしょうか。
「ジャンゴ・ベイツには1、2度レッスンを受けたことがあったんです。彼はイギリスのジャズシーンで重要な役割を果たしている天才的な存在で、シーン全体の音楽語法にも大きな影響を与えています」
――シャバカ・ハッチングスやテオン・クロス、モーゼス・ボイドなどが活躍している、サウスロンドンのシーンとのつながりもありますか。
「シャバカとは過去に何度か共演したことはありますが、僕自身はヨーロッパ大陸のミュージシャンたちと活動することがほとんどで、ベルリンに拠点を移そうと思っているほどですから、サウスロンドンのミュージシャンたちとの接点はあまりないですね。とはいえ、ロンドンでもいろんな人たちがいろんなスタイルの音楽をやっているので、その全体を見渡すと興味深いです」