ECMの次世代を担うと目されているイギリスのピアニスト/オルガン奏者/作曲家、キット・ダウンズ。ECMからの3作目になる彼の新作『Vermillion』は、スウェーデン出身のベーシストであるペッター・エルドとイギリス人のドラマーであるジェイムズ・マドレンとのトリオでジャズを探求した、静謐で美しい作品だ。今回、シンプルなピアノトリオで挑んだ意欲作について、ダウンズ本人に話を訊くことができた。インタビュアーは音楽ライターの坂本信が務める。 *Mikiki編集部
※このインタビューは2022年2月20日(日)発行の「intoxicate vol.156」に掲載される記事の拡大版です

オルガンの研究、メシアンからの影響
――ECMから新作『Vermillion』が発表されましたが、これは『Obsidian』(2018年)と『Dreamlife Of Debris』(2019年)に続くソロ作品ではなく、ジェイムズ・マドレンとペッター・エルドとのグループ作品という位置づけになるのでしょうか。
「そうです。どのアルバムも、僕がその時点で興味を持った方向性を反映したもので、新作はオルガンを中心とした前2作とは違うものになっています」
――あなたのこれまでの経歴を見ると、クラシックからジャズ、実験的な音楽など多岐にわたっていますが、もともとはクラシックのオルガン奏者として教育を受けたのでしょうか。
「そうです。若い頃にオルガンを習いましたが、何よりもよく勉強したのはオルガンによるインプロビゼーションでした。たくさんの曲を練習するよりもむしろ、楽器の仕組みやオルガンによるオーケストレーションの方法といった、技術的な面の研究に力を入れていたんです」
――あなたにとって初めての楽器がオルガンだったのでしょうか。
「最初に手にしたのはチェロでした。4歳か5歳だったと思います。母は音楽教師で父も音楽が大好きで、家では音楽が重要な位置を占めていました。僕は一人っ子なので、音楽は何かのつながりを感じたり集中したりするための良い対象でもあったんです。チェロを始めた後には、教会で歌うようになったりピアノを始めたりもしましたから、僕にとって音楽無しの人生というのは考えられません」
――オルガンに取り組むようになったのは、教会で歌い始めたのがきっかけですか。
「教会で歌う時にいつも聴いていたオルガンの音が好きになって、自分でも演奏したくなってレッスンを受けるようになりました」
――最初はもちろん、既存のレパートリーを勉強したと思いますが、オルガンの世界ではインプロビゼーションも伝統的に行われていたんですよね。
「ええ、レパートリーはバッハやブクステフーデといった古典から、ウィドールやラングレーといったフランス近現代まで勉強しましたが、とくにオリヴィエ・メシアンが大好きで、彼の考え方にはとても刺激を受けています。彼は自身の宗教的信念を表現するのに、神秘主義的な手法を用いていると思うのですが、彼のインプロビゼーションには、彼自身が創り出した様々な音楽語法を抽象化したものが随所にちりばめられています。作曲家が自身の心の内をそういった方法で表現するのを聴けるのは、素晴らしいことですね」
――メシアンには、そういった抽象的な面ばかりでなく、ハーモニーやリズムなどの具体的な手法の面でも影響を受けましたか。
「もちろんです。彼はリズムやモード、鳥の鳴き声、ステンドグラス・ウィンドウ・コード※といった要素を特定の方法で用いていますが、インプロバイズする時にも、あるコード進行にそういった手法を盛り込んでいます。そうやって、彼が自身の思考を流暢に抽象化しているところが素晴らしいと思います」

既知と未知の間を行き来する音楽
――『Vermillion』に収録された曲には様々な方向性が見られると思いますが、たとえば“Sister, Sister”や“Class Fails”では、民謡を思わせるシンプルでわかりやすいメロディーに、あなたならではの洗練された、この世のものとも思えないようなハーモニーが付けられていて、そのコントラストが魅力的ですね。
「スコットランドのラウ(Lau)というバンドのメンバーでもある、フィドル奏者のエイダン・オルークと一緒にやっていたプロジェクトで、彼が弾くダイアトニックな単旋律のメロディーに凝ったハーモニーを付けることに興味を惹かれていました。そういった抽象化の作業の経験が、新作の曲にも反映されていると思います」
――メシアンの音楽でも、ごくシンプルなメロディーに凝ったハーモニーが付けられている場面がよく見られますね。
「メシアンは聖歌や讃美歌、詩編といった古い宗教音楽や民謡にも大きな影響を受けていたと思いますが、僕も聖歌や讃美歌を5年間、毎日のように聴いたり歌ったりしていました。みんなが覚えたり歌ったりできるようなメロディーがあれば、みんながよく知っている部分に訴えるのと同時に、凝ったハーモニーでみんながよく知らない部分に訴えるという、二重の手段が使えます。聴き手のほうは、耳慣れた部分に安心感を覚えるのと同時に、耳慣れない部分に多少の違和感を覚えることで、より繊細な聴き方ができると思います。
リズムの面でも同じことをやっていて、聴き手が常に安心感と違和感の両方を覚えることで、頭の中にはある種の疑問が生じます。そして、疑問を持ちながら聴くことによって、音楽体験がより興味深いものになると考えています」
――ジミ・ヘンドリックスの“Castles Made Of Sand”も、その考え方を取り入れたカバーというわけですか。
「ええ。既知の要素と未知の要素の間に疑問が生じて、それに対する答えを模索しながら聴いてもらおうというわけです」
――既知の要素は、聴き手があなたの音楽世界に入っていく時の案内役にもなりそうですね。アルバムでは“Sandilands”や“Waders”のように、わりとトラディショナルなジャズのピアノトリオという印象の曲も聴かれますが、あなたはジャズのピアノトリオについてどんな考えを持っていますか。
「僕が初めて聴いたジャズのピアノトリオのアルバムはオスカー・ピーターソンの『Night Train』(63年)で、これが僕にとってのピアノトリオの基準になっていると思います。
ただ、あのバンドでは目的の音楽を安定して実現するために各メンバーの役割が決まっていたのに対して、現在のピアノトリオではその役割分担がより自由で流動的になっていると思います。つまり、誰が前に出て誰が後ろに回るかというのも交代制のようになっていて、そこに緊張と緩和の交代が起こっているわけです。たとえば、演奏していてジェイムズとペッターが何かのアイデアを出してくれば僕が引っ込み、ペッターがアイデアを出してくればジェイムズが引っ込み……という具合に、3人が常にバランスを取りながら演奏を進めていきます。それぞれの発想が同じ方を向くこともあるし、互いにぶつかり合ったりすることもありますが、お互いの信頼関係があるので方針が定まります。目的はあくまでも、3人で一緒に音楽を創り上げていくということですから」
――なるほど。では、楽曲の部分はどの程度まで書かれている、あるいは決まっているのでしょうか。
「あらかじめ書かれているものはそれほど多くなくて、メロディーとベースラインぐらいです。あとの部分は流動的で、インプロバイズされたものです。曲の構成もインプロビゼーションによって決まる場合が多いですが、特定の構成を繰り返す曲が多くて、繰り返すたびに少しずつ変化していくような演奏になっています。その意味では古典的なジャズの形式を踏襲しているわけですが、抽象化の度合いがかなり強くなっています」
ECMの枠を越える才能
――あなたのECM作品とは大きく異なる、ドイツ人ドラマーのベニー・グレープ率いるムーヴィング・パーツやスクエアプッシャーなどのアーティストとも共演していますが、彼らからはどんなきっかけで誘いがかかったのでしょうか。
「トロイカという、リズムを強調したラウドなロック……ロックという感じじゃありませんが、そのバンドでキーボードを弾いていたので、ベニーやスクエアプッシャーはその演奏を聴いて、声をかけてくれました」
――あと、ジャンゴ・ベイツのプロジェクトにも参加していますが、彼とはどんなつながりがあるのでしょうか。
「ジャンゴ・ベイツには1、2度レッスンを受けたことがあったんです。彼はイギリスのジャズシーンで重要な役割を果たしている天才的な存在で、シーン全体の音楽語法にも大きな影響を与えています」
――シャバカ・ハッチングスやテオン・クロス、モーゼス・ボイドなどが活躍している、サウスロンドンのシーンとのつながりもありますか。
「シャバカとは過去に何度か共演したことはありますが、僕自身はヨーロッパ大陸のミュージシャンたちと活動することがほとんどで、ベルリンに拠点を移そうと思っているほどですから、サウスロンドンのミュージシャンたちとの接点はあまりないですね。とはいえ、ロンドンでもいろんな人たちがいろんなスタイルの音楽をやっているので、その全体を見渡すと興味深いです」

音楽を創ることが自己表現の最良の方法
――オルガンに話を戻しますが、あなた自身がオルガンのレパートリーよりもインプロビゼーションに興味を惹かれたのはなぜですか。
「教会での礼拝ではオルガン奏者がインプロバイズする場面がありますが、その場で演奏のアイデアが思い浮かぶということに感動したのがきっかけです。
それに、僕自身も子供の頃から、他の人の曲を演奏するよりも自分の音楽を創りたいという願望がありました。もちろん、他の人の音楽を演奏するのも好きですが、自分の音楽を創ることで、より純粋に自分を表現することができると思います。誰もが自分を表現したいと思っているわけですが、音楽を通じてそれができるというのは素晴らしいことで、僕にとっても自分の音楽を創るというのが、自己表現のための最良の方法だったんです」
――アルバム『Obsidian』の“Rings Of Saturn”では、音をベンドするテクニックも使っているようですが、パイプオルガンでそんなことができるものなんでしょうか。
「パイプに送り込む空気の量を調節することで、音をベンドできるんですよ。僕はそういったオルガンの発展的なテクニックも研究していて、たとえば、機械式のオルガンのストップ※を途中で止めることで、通常とは違う質感の音を出すこともできます。そういうのが楽しくて、演奏にも好んで取り入れています。
教会によってオルガンも様々ですし、使えるストップの組み合わせも様々なので、初めてのオルガンと接する度に良い勉強になりますし、自分の奏法を再発見することもできます」
――新作を発表したばかりですが、まだ他にも作品のアイデアはありますか。
「去年コンサートで共演した、セルビアの伝統的な合唱隊と一緒に録音したり、ペッターやジェイムズと一緒に新しく書いたアニメ音楽をトリオで録音したりするつもりです。あと、オルガン曲のレコードもまた作りたいと思っています」
RELEASE INFORMATION

リリース日:2022年2月11日
品番:UCCE-1189
フォーマット:SHM-CD
価格:2,860円(税込)
配信リンク:https://jazz.lnk.to/Kit_Downes_VermillionPR
TRACKLIST
1. Minus Monks
2. Sister, Sister
3. Seceda
4. Plus Puls
5. Rolling Thunder
6. Sandilands
7. Waders
8. Class Fails
9. Bobbl’s Song
10. Math Amager
11. Castles Made Of Sand
PROFILE: キット・ダウンズ(Kit Downes)
86年、英国生まれのピアニスト/オルガン奏者/コンポーザー。2008年にBBCジャズ賞を受賞し、2010年にマーキュリー賞にもノミネート。自身のバンド(〈ENEMY〉〈Troyka〉〈Elt〉〈Vyamanikal〉)や、スクエアプッシャー、トーマス・ストレーネン、ジャンゴ・ベイツなどのアーティストと共にピアノ、チャーチオルガン、ハルモニウムを演奏して世界中に参加。チェルトナム音楽祭、ロンドン・コンテンポラリー・オーケストラ、スタバンガー・コンセルタス、リワイヤー・フェスティバル、ケルン・フィルハーモニー、BBCラジオ3、ウェルカム・トラストのために作曲をしているほか、映画製作者、ゲーム開発者、クラシック音楽の作曲家とのコラボレーションなどもこれまで行ってきた。パイプオルガンやピアノのソロコンサートを行うほか、サックス奏者のトム・チャレンジャー、チェロ奏者のルーシー・レイルトン、作曲家のシバ・フェシャレキ、バンド〈ENEMY〉とのコラボレーションも行っている。現在は、バイオリニストのエイダン・オルーク、作曲家のマックス・デ・ウォードナーとの共演や、レイニア・バース、ヨナス・ブルグウィンケルとのオルガン・トリオでも活動している。さらに、彼自身が学んだロンドンの王立音楽院で教えており、現在はフェローシップを取得している。