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バルカンの微分音に寄せて

 キット・ダウンズ。オルガニスト、ピアニスト、作曲家という肩書きに時にジャズ、アンビエント、さらに現代音楽というジャンルを足して、都度、最低限の説明責任を果たしたつもりでいるのではないかと、毎回既存のジャンルから不時着する彼の、あるいは彼が参加するアルバムが発売されるたびに首を傾げることになる。以前次の目標を「クワイアとのコラボ」とはっきり口にしていた。オルガニストとしての出発点が英国の大聖堂での合唱団であり、大聖堂のオルガニストから手ほどきを受けたのだから、至極当然な選択だと思った。ピアニスト、ティグラン・ハマシアンにも“Luys I Luso”というアルメニアのクワイアとのコラボアルバムがある。キットの出自を考えてエリザベス朝に花開いた英国の合唱音楽とのコラボなのかと一瞬思ったが、彼は、ティグランと同様、たとえばブルガリアンヴォイスとのコラボのようなことを構想していた。果たして新しく届いたアルバムのタイトルは“Medna Roso”。アルバムには解説らしきものはなくレーベル、Red Hook Recordsのサイトに飛んでプレス・リリースのような解説を読む。

PJEV, KIT DOWNES, HAYDEN CHISHOLM 『Medna Roso』 Red Hook/キングインターナショナル(2023)

 Medena Rosoは、ザグレブの合唱団PJEVからの選抜メンバー、キット・ダウンズ、ニュージーランド出身のサックス奏者ヘイデン・チスホルムの三者によるプロジェクト名だ。ヘイデンはキットより早く、バルカンの響きを保存するこのクワイアに注目し、彼らとのアンサブルの可能性を彼の地に渡って研究、考察していた。プロジェクトが実現するのは、2021年のケルンでのフェスティヴァルだった。ヘイデンは微分音を発するアルトサックス、アナログシンセなどの音具、特殊な歌唱法ー喉歌を使い分け、キットは彼固有の奏法を駆使して教会オルガンを操り、バルカンの声とのアンサブルを楽しむ。彼らの音楽に耳を澄ませば、ここで用いられる微分音は、音楽への構造的介入の方策ではなく、バルカンの伝統にチューニングするための直観的創意である方便だ。ザグレブの伝統的歌唱とキットやヘイデンの個性は、互恵的な交換の中で、プロジェクトを豊かに開く。