Page 1 / 2 1ページ目から読む

「業界の離れ小島」から世界へと漕ぎ出して、問題児的な監督らに慕われる映画仕掛け人。

 その読後感は、高見順著『昭和文学盛衰史』や嵐山光三郎著『口笛の歌が聴こえる』、近年ならば正津勉著『京都詩人傳 一九六〇年代詩漂流記』を想起させる濃縮度だった。“ミニシアターの牽引者”堀越謙三のラディカルな活動の軌跡を(高崎俊夫の)聞き書きで辿ったメモワール、『インディペンデントの栄光・ユーロスペース』(『月刊ちくま』2014年8月~15年10月)。計15回分の連載を一気読みした後の率直な感慨だ。本稿執筆に際し、ハイライト部分の拾い読みを試みても、ついつい全体を再読してしまう辺りは、矢沢永吉激論集『成りあがり』(構成は糸井重里)の中毒性に似ているかもしれない。が、「矢沢が」「矢沢は」が炸裂する永ちゃん節に比して、堀越の伝記は「じぶん語りにはあんまり興味がない」と自ら明かすとおり、多士済々との邂逅劇/交遊録の航跡で全体が編まれており、その逸話の総てが面白いのだ。最終回の末尾で〈大幅加筆のうえ、単行本化する予定〉と告げてから早7年、待望の書籍は現在鋭意校正中で近く上梓されるとか。加筆部分の増量期待感共々、実に待ち遠しく、映画/本好きの垣根を越えて推したい一冊だ。

 同連載は、早稲田大学第一文学部独逸文學専修を卒後に渡独した著者が、1971年に帰国する件から始められている。つまり“あの68年”を、1945年生まれの堀越が「母国不在/海外滞在」というスタンスで通過している事実がなんとも興味深い。少年期から母親に連れられて観た“新派”の花柳章太郎や水谷八重子・初代の魅力、あるいは当時流行りの“よろめきドラマ”の世界を敬遠し、「傾向的にはじぶんも左だろうが、堪らなく嫌だった早稲田闘争」から「逃げたい一心」で単身の欧州行を選んだからだ。激動の始まりだった。

 「68年にあちらに行った時、ウィーンの駅でロバート・ケネディの暗殺のニュースを聴いたわけ。で、現地に行ったら今度は“プラハの春”でしょう。ドイツ中のスーパーからあらゆる食料品が消えて、大騒ぎになった。“戦争”をこの近さで感じたことはなかったから吃驚しましたし……僕は終戦の年生まれだけれども、気付いた時にはもう戦争は終わっていたから。リアルなものではなくて、“過去”として語られてきたわけですよ。それが68年にドイツに入ったら、プラハの春で。今のウクライナと一緒で“ロシアが来るかもしれない”と皆が思って、食料を買い込んでる。そういう中にいきなり入っていって、やはり吃驚した。あっ、過去じゃないんだ……ってね」

 三島由紀夫の自決(1970年)も、あさま山荘事件(1972年)も、堀越は異国のTV画面で知り、「どこの国との出来事なんだ!?」と仰天した。マインツ大学ドイツ文学部科修士課程を中退し、正式帰国したのが1971年。同世代とは少し趣きの違う彼の“祖国不在期”が終わる。

 が、彼が「欧日協会日本支部」を設立した1972年が明けると、空前の「甘ったれた四畳半フォーク・ブーム」に奇襲された。堀越は連載でこう語り下ろしている。〈中野重治の“赤ままの歌を歌うな”という詩を銘じて自分の中の情緒的なものを否定していたのにね。でも、良いとか悪いとかじゃなくて、そういう時代なんだなと言い聞かせましたね〉。それな! 朧げな記憶の中で膝を叩き、重治の「歌」を久しぶりに読んでみた。後ろのほうの詩句にはこう書かれている。〈胸元を突き上げて来るぎりぎりのところを歌え/行く行く人々の胸郭にたたきこめ〉。のちの企画「加藤泰 情感の美学」や「浪曲映画祭―情念の美学」の副題に読み取れる、堀越哲学の源流かもしれない。「無知は時としてすごい武器に成り得る」と語る彼の異端性がわが国の映画ファンやカルチャーに与えた影響は計り知れない。

 劇場を持つ以前の1975年頃は、ドイツ文化センターから字幕無しの16ミリ・フィルムを借りて来て上映していた(ヘルツォークやヴェンダースの作品、一世代上のレンドルフ、クルーゲの作品、ドイツ表現主義の古典等の組み合わせ)。独文科時代の同級生・田村志津枝とあらすじを翻訳し、手書きのガリ版刷りを百円で売っていたという。映画好きの自主上映団体も群雄割拠していたが、「他と違うことをやる」「小さなことでもいいから差別化を図る」が信条の彼はやがて、自ら輸入して買い付けた映画を上映しようと想いだす。が、購入方法も一切知らず、何のコネもなく、いきなり渡独してはシネマテークの館長に電話して面白がられた件、同い年のヴェンダース監督作品『さすらい』と出遭う逸話は、連載2回目「ユーロスペースを設立する」の章に詳しい。それにしても何故、母親譲りの新派好き少年がドイツ語やドイツ文化に興味を覚えたのか?

 「僕は杉並の豊多摩高校というヘンな都立校へ入って……出身有名人が谷川俊太郎さんから始まって、宮崎駿とかイッセー尾形とか、2歳下で最近亡くなった小説家の橋本治だとか、真っ当な人間がいないというか、あんまり実業家で凄い人とかは聞いたことがない高校で(笑)。で、その高校時代にたまたま読んでいたのがトーマス・マンとかリルケ辺りで、それも偶然ですよ(笑)。その時にヴェルレーヌを読んでいれば、仏文に行っていただろうしね。人生、そんなもんですよ」