日本オペラ界のトップ・テノール福井敬
同県人〈宮澤賢治〉の歌曲全曲を録音

 福井敬は1992年5月7日、東京二期会公演「ラ・ボエーム」(プッチーニ)のロドルフォ役でデビューして以来、日本のオペラ界のトップ・テノールであり続けてきた。自身の30周年と還暦(60歳)、二期会創立70周年が重なった2022年、同じ岩手県出身の宮澤賢治の『歌曲全集』(キングインターナショナル)を録音した。友人たちの口承伝承でかろうじて残った歌の数々を作曲家の中村節也(1928―)が採譜して校訂、ピアノ伴奏をつけて編曲した楽譜『イーハトーヴ歌曲集1&2』(マザーアース)に基づく。

福井敬 『宮澤賢治歌曲全集「イーハトーヴ歌曲集」』 キングインターナショナル(2022)

 

――宮澤賢治の歌だけで1枚のディスクを作るとしたら、同郷の福井さんが最適ではないかと、かねてから考えていました。

「同県人という思いは、もちろんあります。最初は“星めぐりの歌”“風の又三郎”くらいしか知らなかったので、家族で花巻市の宮沢賢治記念館を訪れた際に2冊の楽譜を知り、驚きました。うち何曲かは過去の日本歌曲のCDに収めたのですが、今回、中村さんとキングインターナショナルの宮山幸久プロデューサーから全曲録音のお話が持ち込まれ、喜んでお引き受けした次第です」

――オペラの福井さんは多くの知るところですが、実は歌曲の名手です。私は以前、福井さんが歌う“さとうきび畑”(寺島尚彦)の〈ざわわ、ざわわ……〉の繰り返しに、激しく心を揺さぶられた経験があります。

「どんな短い歌曲にも色々な物語がこめられていて、1つのオペラに匹敵します。場合によっては、モノオペラ(1人で歌うオペラ)の域に達してもいます。私は〈歌曲はオペラのように、オペラは歌曲のように〉を身上としてきました」

――福井さんはドイツ歌曲も歌われますが、今回の録音を聴きこむうち、私は宮澤賢治がシューベルトと世界を共有するように思えてきました。

「シューベルトが31歳、宮澤賢治が37歳と亡くなった年齢が近いだけでなく、必ず詩から音楽を発想していた点でも共通します。賢治は作曲家というより詩人ですが、学校に就職して学生に歌わせることも含め、元から音楽を付けることを前提に書かれたと思われる詩、文章が結構あります。ベートーヴェンの“田園”交響曲の第2楽章“小川のほとりの情景”を引用した“弓のごとく”も賢治にとっての自然の情景、岩手の風景と完全に同化していて、私が北上川のほとりで聞いたヒバリのさえずりを思い出します」

――多くが譜面ではなく、最初は友人たちが歌い、口伝えで広まった点もシューベルトが友人たちと集い、自作を真っ先に披露したシューベルティアーデと共通します。

「中村先生の楽譜に説得力があるのも、楽譜がないにもかかわらず、賢治が人に強く何かを伝えていればこそ、皆が歌える形で残ってきたからで、すごいことです。賢治が心の中に秘めていたであろう色々な思い、わだかまり、割り切れない気持ち、岩手の自然や人間の模様が詩の中に最も純粋な形で織り込まれ、それが歌になると、さらに純度を増す気がします。5曲からなる“飢餓陣営の歌”は戯曲、ミュージカル、レビューの要素まで取り込み、花巻で実際に上演もしたそうです。抱腹絶倒の物語と爽やかで面白いメロディの組み合わせは絶妙で、私たちが紹介した際も、お客さんは大笑いしました」

――賢治が今、生きていたら〈天才クリエーター〉ともてはやされたでしょうね。

「はい。100年早く生まれてしまったマルチタレントです。私は東日本大震災(2011年)以降、ディスクの最後に収めた“雨ニモ負ケズ”の詩を全国各地のリサイタルでとり上げ、岩手の言葉で朗読してきました。今年はびわ湖ホール、東京二期会と2つの公演で『パルジファル』の題名役を歌いますが、このワーグナー最後の作品は、どこをとっても祈りに満ちています。“雨ニモ負ケズ”の一節に〈ミンナニデクノボートヨバレ〉とあります。パルジファルもまた〈聖なる愚者〉です。賢治の〈デクノボー〉とは、すべてが自分のためではなく皆のため、皆の幸せのためにあり、パルジファルの精神と完全に一致、洋の東西や宗教の違いを超えたところで2人の偉大なクリエーターが通じ合うのは、本当に素晴らしいことだと感じています」

 


福井敬(Kei Fukui)
テノール歌手。岩手県出身。国立音楽大学および同大学院修了。文化庁オペラ研修所修了。文化庁在外研修員として渡伊。第65回芸術選奨文部科学大臣賞をはじめ出光音楽賞、エクソン・モービル音楽賞洋楽部門本賞等受賞多数。1992年二期会「ラ・ボエーム」ロドルフォ役の鮮烈デビュー以来、わが国を代表するトップ・テナーとして、輝かしい声、情感溢れる演技で聴衆を魅了している。二期会会員。

 


LIVE INFORMATION

東京二期会東オペラ劇場  ワーグナー:パルジファル〈新制作〉
2022年7月13日(水)東京・上野 東京文化会館 大ホール
開場/開演16:00/17:00
2022年7月16日(土)東京・上野 東京文化会館 大ホール
開場/開演:13:00/14:00

■出演
セバスティアン・ヴァイグレ(指揮)
宮本亞門(演出)
パルジファル:福井敬
アムフォルタス:黒田博
ティトゥレル:大塚博章
グルネマンツ:加藤宏隆
クリングゾル:門間信樹
クンドリ:田崎尚美 他

http://www.nikikai.net/lineup/parsifal2022/index.html