(左から)高橋Rock Me Baby、村越辰哉

RCサクセションが88年8月15日に発表したカバーアルバム『COVERS』と、同年12月16日にリリースしたライブアルバム『コブラの悩み』。伝説的な名盤2作が、タワーレコードの企画でアナログ盤として2023年3月22日(水)に復刻される。

35年ぶりにレコードで再登場するこの2作といえば、政治的なメッセージだけでなく、『COVERS』の発売中止騒動をはじめ、忌野清志郎とバンドの激動、苦難と切っても切り離せない。この時期の出来事は、清志郎やRC、あるいは日本の音楽業界のみならず、日本社会全体を議論に巻き込んだ大きなものであり、2023年の現在も鋭い問いをつきつけてくる。

今回はそんな2作のリイシューを記念して、東芝EMIの宣伝担当として当時のRCと清志郎をすぐそばで目撃していた高橋Rock Me Babyに、タワーレコード新宿店の副店長・村越辰哉がアルバムの背景から当時の社会状況、バンドの音楽的なトライまで、さまざまなトピックについてじっくりと訊いた(なお、この記事は、忌野清志郎ファンクラブの会報誌「どんちゃん画報」に掲載されたものの〈濃縮版〉になっている)。


 

清志郎のデモテープと横浜ベイサイドクラブでの伝説的ライブ

――『COVERS』の制作はいつ、どこから始まったのでしょうか? 清志郎さんが近藤(雅信/東芝EMI、当時の宣伝担当)さんに送ったというカセットテープですか?

『MARVY』(88年2月25日)の頃じゃないでしょうか。近藤さんは当時、清志郎さんと非常に信頼関係が強かったんです。

それで、清志郎さんがご自宅で録った弾き語りのテープをいろんな人に聴かせていたら、近藤さんが〈すごくいいのでアルバムにしましょう!〉と伝えて、清志郎さんは〈そう言ってくれたのは近藤だけだよ(笑)〉と返したそうです」

RCサクセション 『COVERS(完全限定生産)』 ユニバーサル/キティ(2023)

――なるほど。

「それと、横浜のベイサイドクラブという大型クラブで、東芝EMIがショーケースライブをやったんですね。最後にサプライズゲストで清志郎さんが出て、珍しいエレキの弾き語りをやった。〈今、RCサクセションが新しいアルバムのレコーディングをしているのに、宣伝の近藤に連れられて来ました〉というようなMCをしていましたね(笑)。当時凝っていたベンチャーズの“Pipeline”を弾いたあと、“ラヴ・ミー・テンダー”と“サン・トワ・マミー”、ちわきまゆみさんを呼び込んで“コール・ミー”をやったんです。“ラヴ・ミー・テンダー”は初めて聴いたので、驚いてしまって。伝説のライブでしたね。

また、88年に渋谷公会堂での〈THE COVER SPECIAL〉にジョニー・サンダースが出演して、そこで清志郎さんと意気投合して、帰りに原宿クロコダイルへTEARDROPSのライブに行ったんです。それで、レコーディングもしようという話になりました」

――高橋さんが関わるようになったのは、いつですか?

「すでに手伝っていて、ベイサイドクラブへ行くバスの添乗員をしていました(笑)。

『COVERS』は当初6月にリリースする予定だったので、もう録音していないと間に合わなかったはず。清志郎さんとしては、オリジナルでやろうとするので時間かかってしまうから、カバーアルバムを作ればいいんだという発想で(笑)。それで、ゲストを入れることになり、周囲の人たちに連絡したんです」

――『COVERS』の制作は和気あいあいとしていて、怒りモードではなかったと聞きますね。

「RCは『ハートのエース』(85年)のときに曲のストックが切れて、新曲が出来なかったそうです。

売れなかった頃は、貧乏や学歴社会、ロックを否定する大人など、さまざまな敵がいて、それにフォーカスして曲が書けたわけですよね。世間に受け入れられない若者の代弁者として、〈自分の人生を生きるんだ〉という歌を作れた。

でも、RCはとてつもなく大きな成功をしてしまって、セレブリティになってしまった。フォロワーが生まれ、周囲やバンド内の力学が変わり、清志郎さんは“い・け・な・いルージュマジック”(82年)のヒットやテレビ、CMへの出演でお茶の間でも有名になりました。そうなると、バンドの練習時間が少なくなり、バラバラになり……。だけど、『the TEARS OF a CLOWN』(86年)を聴けばわかるとおり、それでも抜群の演奏ができてしまうバンドだったんです。

ただ、メンバーとの軋轢が激しくなってしまって、それが決定的になったのは(忌野清志郎のソロアルバム)『RAZOR SHARP』(87年)だったと思います」

――苦しい状況ですね……。

「リンコ(小林和生)さんと(破廉)ケンチさんと3人でRCを始めたときは、近所の友だちどうしで成り立っていたんです。

それが、清志郎さんは、高校卒業後にCHABO(仲井戸麗市)さんと出会って、セッションドラマーとして活躍していた新井田(耕造)さんをバンドに誘い、gee2woを加えて、RCは5人のバンドになった。各人のちがいがバンドの個性になっていたぶん、心がズレると複雑になってしまうんだと思います」

――なるほど。

「そんなとき、79年のスリーマイル島の原発事故が起こった。それに反応して、ジャクソン・ブラウンやグラハム・ナッシュなどが〈ノー・ニュークス〉のコンサートをやったんです。日本では、浜田省吾さんが環境汚染問題を歌詞に織り込んだ“僕と彼女と週末に”を82年に出していますね。

そして、86年にチェルノブイリの事故が起こりましたが、日本は88年からバブル景気になって国際社会から隔絶したかのように浮かれていました。清志郎さんは、それに気づいたんだと思います。トップスターの枠からはみ出したかったこともあり、問題提起することで新しい〈仮想敵国〉が出来る。それには、カバーのほうが表現しやすかったんだと思います」

――“ラヴ・ミー・テンダー”は象徴的ですよね。

「ええ。ただ、“どろだらけの海”や“言論の自由”など、デビュー時からああいうことは歌っていました。ご本人に訊くと、〈あの頃はああいうのを歌うのが時代の流れだったんだよ〉と言うんですけど(笑)。

〈歌詞に意味なんかない、意味なんかどうでもいいんだよ〉とも、ずっと言っていましたね。80年のインタビューで歌詞について訊かれたときは、〈大切なのは言葉のリズムだ〉と言っていました。なので、“ラヴ・ミー・テンダー”の〈何言ってんだ〉とかは、すぐに出来たんだと思います」

『COVERS』収録曲“ラヴ・ミー・テンダー”

――〈世界中バラバラ〉(“バラバラ”)と歌ってみたらそこからどんどん膨らませられる、言葉遊びのセンスですよね。

「それと、『COVERS』は、流行りものを聴いている中学生でもわかるような内容だったのが大きかった。

もうひとつ大きかったのは、当時の人気アーティストたちがRCへのリスペクトを公言していたこと。タイミングとしてバッチリだったんです」