多様な価値観とそれぞれの正義が乱立する現代社会の弊害を歌った“偽物勇者”(2019年)のバイラル・ヒットで知られるシンガー・ソングライター、703号室こと岡谷柚奈。本人は朗らかで、取材時、趣味のアニメについて嬉々として語る姿は微笑ましくもあったが、芯にあるのは音楽と言葉の力を信じる熱い気持ちだ。

 「私は中学3年生から音楽を始めて、自分の感情を消化する手段として楽曲を書いていたんですけど、“偽物勇者”は初めて世の中に対して伝えたいことがあって書いたんです。当時、SNSでの誹謗中傷が問題になっていて、言葉って本来は人と人を繋ぐ力を持っているものなのに、それが逆に人を傷つけることに使われているのがすごく悲しくて。その現状を少しでもなんとかしたくて書いたのが“偽物勇者”です」。

703号室 『BREAK』 SPACE SHOWER(2023)

 その“偽物勇者”を起点に、これまで彼女が703号室として発表してきた全楽曲と3つの新曲を収録したのが今回の初アルバム『BREAK』。ギターの弾き語りで、生きる理由をまだ見つけられない人に向けて淀みない歌を届ける“リセットボタン”、タイアップ・ドラマの主人公と自身の共通点を軸に曲想を広げることで煌びやかな新味を獲得した“裸足のシンデレラ”、変幻自在の歌声とラムシーニ製のカオティックなトラックが人の持つナンセンスな本質を照らし出す“人間”など、曲調もテーマも実に多彩だ。

 「私はダークな曲も好きだけど、もともとは明るめな曲を作ることが多くて、HoneyWorksさんみたいな青春キラキラな世界観が大好きなんです。最初の頃は“偽物勇者”を意識して〈風刺的な曲を作らなきゃ……〉と思っていたんですけど、結局それは囚われすぎているなと思ったんですよね」。

 アルバム用の新曲も〈陰と陽〉の両面が浮かび上がるものに。ラムシーニと一緒にその場で歌詞/メロディー/トラックを作っていったという“非釈迦様”は、「〈地獄に落ちてでも君といたい〉って思ってくれるくらい誰かに愛されたい、女の子の心の欲にフォーカスした」という熱烈な愛の歌。ブルージーな哀愁漂う“egoist”では、自分だけの〈正義〉に溺れる人への皮肉めいた歌詞に、“偽物勇者”から一貫した彼女の価値観が息づいている。

 「両親の影響で小さい頃から仏教や釈迦の教えみたいなものが身近にあったのですが、そのなかに〈すべては無なので、人が幸せになるためには、欲を捨てる必要がある〉という教えがあったんです。でも、私は自分の気持ちや欲を捨てるくらいなら、別に不幸のままでいいなと思って。もし私に〈歌手になりたい〉という欲がなかったなら、〈何で売れないんだろう?〉みたいな苦しみを味わわなくて済む。でも、何かを追い求めているいまの自分のほうが好きなんですよね」。

 そんな彼女の気持ちを投影したのが、アルバムのラストを飾る新曲“Sing for me”。〈神様が創った僕の命〉の意味を自問自答するなか、〈だから、うたをうたうのだ〉と歌う声が晴れやかに響き渡る。

 「これは現時点での自分の答えみたいな曲。いまの自分にとって大事なのは、好きなことをやることで、自分は歌を歌っているときがいちばん楽しいし幸せだということに行きついた曲です」。

 「誰の手も届かない隅でひとり泣いている人にまで、寄り添える曲を作りたい」と語り、「それを実現するためには東京ドームに立てるくらいのアーティストになりたい」と公言する彼女。今回のアルバムも、その大きな夢の第一歩に過ぎない。

 「私は音楽を始めたときから、23歳で芽が出なかったら音楽を辞めようと考えていて、それが今年なんです。だからある意味、これがスタートでもあるし、さらに新しいものを生み出すにはこれまでを壊す必要があると思ったので、アルバムのタイトルを『BREAK』にした。この先、自分の音楽がどうなっていくのか、明確な答えはないんですけど、いま表現している価値観や世界観は一度全部捨てて、もっと人間味のある703号室を作りたいなと思っています」。

 


703号室
シンガー・ソングライター、岡⾕柚奈のソロ・プロジェクト。2018年に専⾨学校の同級⽣と結成し、卒業を機に1人体制となる。2019年8月のファースト・シングル“偽物勇者”が注目を集め、その後も2021年4月の“裸足のシンデレラ”、2022年5月の“人間”など精力的に楽曲を発表。中孝介や豊⽥萌絵への楽曲提供を行いつつ、2022年10月にはSpotify O-WESTでのワンマン公演をソールドアウト。ファースト・アルバム『BREAK』(SPACE SHOWER)を6月7日にリリースする。