今から約75年前、敗戦の悲嘆に暮れる日本に響き渡った歌、“東京ブギウギ”。その歌い手として爆発的な人気を得た〈ブギの女王〉こと笠置シヅ子をモデルにしたNHK連続テレビ小説 第109作「ブギウギ」がいよいよ2023年10月2日(月)より放送されます。数々のアーティストにカバーされ続ける“東京ブギウギ”のほか、“ジャングル・ブギー”“買物ブギー”など幾多の名曲を放った大スターの生涯に、かつてないほど熱い視線が注がれる昨今。そんな「ブギウギ」の開幕を前に、“東京ブギウギ”が生まれるに至るまでの歌手・笠置シヅ子の波乱万丈な歩みをご紹介。ドラマを楽しむためのガイドとして、ぜひお役立てください。
なおタワーレコード オンラインは、「ブギウギ」を〈ウキウキに楽しむため〉の関連作品を紹介した特集記事を掲載しています。Mikikiの記事とあわせてぜひご覧ください。
歌って踊る銭湯の看板娘からスウィングの女王へ
生まれは1914年8月25日、香川県大川郡相生村(現:東かがわ市)。その翌年に父親が病死し、母親は母乳の出が悪かったこともあり、偶然同時期に出産のため近くに帰省していた女性・亀井うめとその夫・音吉の養女となり、大阪に暮らす亀井夫妻に育てられる。芸事に親しむ夫妻の影響で、幼い頃から日本舞踊や三味線を習い、音吉が銭湯を営むようになると、その脱衣所で歌や踊りを披露して近所の評判となった。
27年、小学校を卒業すると宝塚音楽歌劇学校を受験するも不合格となり、大阪の松竹楽劇部生徒養成所(OSK日本歌劇団の前身)に入り、〈三笠静子〉の芸名で初舞台を踏む。その後、芸名を〈笠置シズ子〉と改めた彼女は38年春、23歳の時に、松竹が新たに創設した松竹楽劇団(SGD)の専属メンバーに選ばれ上京、そのSGDで、笠置は一人の作曲家にその才能を見出される。それが当時コロムビアの専属作曲家で、淡谷のり子の“別れのブルース”を大ヒットさせるなど注目を集めていた服部良一だった。
自身より7つ年上の新進作曲家・服部によって厳しく鍛え上げられた笠置はジャズ歌手として売り出されると、デビュー曲として吹き込んだ“ラッパと娘”などが評判を呼び、〈スウィングの女王〉としてたちまち人気を博していく。しかし、徐々に戦時色が濃くなっていくにつれ、ジャズという〈敵性音楽〉を歌う笠置は警察から睨まれることとなり、たびたび公演中止の憂き目に遭ってしまう。そして41年、ついにSGDが解散、笠置は終戦まで思うような活動ができず、窮境の中で過ごすことを余儀なくされた。
戦中の苦難と一世一代の恋
その間、養母・うめが亡くなり、出征した弟が戦死するという不幸が続いた笠置。そんななか43年、笠置は自身の大ファンだという一人の〈眉目秀麗な青年〉に出会い、後にも先にもその生涯でただ一度となる、燃えるような恋に落ちていく。青年の名は吉本穎右。〈伝説の女興行師〉として知られる吉本興業の創業者・吉本せいの子息であり、笠置より9歳年下となる20歳の学生だった。2人は戦火が激しくなるなか結婚を誓い合うも、穎右が当時不治の病だった結核に罹患、さらに母・せいの猛反対により、なかなか結婚は実現しなかった。
東京大空襲では家を焼失し、無一文となった笠置。終戦後の47年5月、穎右の子を身籠り、出産が迫っていた彼女のもとに突然、訃報が届く。療養のため関西の自宅に戻っていた穎右の急逝だった。結局未婚のままだった笠置は最愛の人の死に目にも立ち会えず、悲しみに打ちひしがれるなかで、翌月、娘・ヱイ子を出産。もともと出産後は引退して家庭に専念するつもりだったが、その願いは無常にも絶たれ、シングルマザーとして愛娘を育てていく覚悟を決めた笠置は、かくして歌手としての再起に挑んでいくことになった。