“ハンマークラヴィーア”との対峙――困難の岩壁に咲いた、やわらかな花
ヴァレリー・アファナシエフが、ベートーヴェンの“ハンマークラヴィーア・ソナタ”op.106をレコーディングした。ピアノ音楽史上の最難曲ともみられる大曲に2023年6月、75歳にして初めて本格的に対峙したのである。「実際これほどまでに難しい作品だとは、想像もできなかった」とアファナシエフは笑った。「多くのピアニストが気安く扱ってきたが、これはハードに扱うべきもの。途方もない作品で、多面的な複雑さがある。ベートーヴェンも自ら怖れを抱いていたのではないかと私は思う。とくにフーガは怪物的で、始終クレイジー。ほとんど悪夢のようだが、それでも彼は生きていかなくてはならなかった」。
困難な作品の時間を生き抜くなか、アファナシエフの演奏には、緩徐楽章にかぎらず、ある種の脆さや優しさに近い感情もやわらかに通っている。「人生の喜びや苦しみのさなかにもバランスは必要だ。私たちはこうしたバランスを見つけ出さなくてはいけない、生き続けていくためにも。ロシアをめぐる情況は心底耐え難い。悪夢のなかを生きていることを認めるべきなのだが、私たちの世界はこうした体験に対してまったく準備ができていない」。
本人の体調も苦しい時節ではあったが、多くの繋がりが感じられたのは大きかったという。「人生のさまざまなことが繋がった。調律師のおかげで、数年前に亡くなった愛猫とそっくりのイングリッシュ・ショートヘアと出会えた。新しいヤマハも素晴らしい。旧友がパーフェクトな編集をしてくれた。私がなにを求めているかわかるからだ、と彼は言った」。
本曲への挑戦には、師エミール・ギレリスへのオマージュの想いも強くあるはず。折しも先達のドイツ・グラモフォン盤から40周年にもあたっていた。「私がギレリスに抱くのは絶対的なリスペクト。あらゆる意味で、人生のあらゆる側面において偉大だ。レッスン後にはたくさん話をした、深夜2時まで、コニャックを飲んで」。
2017年に録音した6枚組『Testament』に続き、こうして難曲のモニュメントも実った。王子ホールでの3年シリーズ『TIME』も完結。アファナシエフにとって、さまざまな意味で時が満ちてきたようにみえる。「これらのことをするのは一種の義務だと私は考えていた。義務は成し遂げたと思う。だから、先に行くこともできる。ブラームスのソナタ第3番やヘンデル変奏曲の録音については思案しているよ。グリーグも録りたい、ギレリスへのもうひとつのオマージュとして」。