満を持してベートーヴェンの3大ソナタを録音したアファナシエフ
6月に来日公演を行なったヴァレリー・アファナシエフ。東京・トッパンホールのリサイタルでは、バッハの平均律と現代ロシアの作曲家ヴァレンティン・シルヴェストロフ(1937~)の《オーラル・ミュージック》などの作品を並べるという、アファナシエフらしい意外性のあるプログラミングだった。この来日に合わせてリリースされた新しい録音もベートーヴェンの3大ソナタと言われる《悲愴》《月光》《熱情》という意外な(?)作品だった。
「なぜ今、こうしたベートーヴェンの有名作品を録音するのか、と聞かれることは分かっていたけれど、自分にとってはベートーヴェンの作品はとても身近なもので、特にこの3曲は幼い頃から親しんでいた作品だった。ただし、それが自分に納得の行くレベルで演奏できるかどうか、というのが問題であって、自分にとってすべてが自然に演奏できるようになるまで時間が必要だったということだと思う。そして、ようやくその時が来たので、録音をしたいと思った」
と淡々と語るアファナシエフ。
「実際のところ、この3曲はそれほど簡単な作品ではないと思う。録音にはかなりの準備が必要だし、友人たちの手助けも必要だった。そこで以前からの知り合いであり、素晴らしい録音も一緒に作って来たプロデューサーのゲルハルト・ベッツが協力してくれた。録音会場もとても良い響きを持つハノーファーのベートーヴェン・ザールで行なうことが出来た。理想的な環境で録音に取り組むことが出来た」
アファナシエフとゲルハルト・ベッツはこれまでにブラームスの「間奏曲集」などで共同作業を行なって来た。
「今回はベッツが楽譜を何種類か持ち込んでくれて、それをいろいろと検討しながら録音に臨んでいた。自筆譜のファクシミリなどもあったよ。特に問題になるのは、《悲愴》の序奏部をどう処理するかという点だろうと思うけれど、演奏しながら仔細に検討した結果、提示部を繰り返す時にその序奏部を繰り返すのはしないことにした。そういう検討がベートーヴェンの録音の場合には必要になるね」
また、有名な《月光》だが、この作品の持つ意味についてもいろいろな意見がある。そもそも「幻想曲風に(Sonata Fantasia)」と題されている点も気になるが。
「じゃあ、逆に尋ねるけれど、幻想曲風じゃないベートーヴェンのピアノ・ソナタなんてあるのかな? ベートーヴェンのピアノ・ソナタは常に革新的で、従来のソナタの枠からもはみ出ているような作品ばかりだと思う。それこそがベートーヴェンの素晴らしいところだろう。彼は常に現状に満足しないで、新しい可能性を追求していた作曲家だった。それが良く分かるのがピアノ・ソナタの世界であり、32曲のどれもがひとつひとつの個性を持ちながら、革新的であるという驚くべき世界を作り出している」
と意外なほど熱弁をふるうアファナシエフ。そこにはベートーヴェンという作曲家に対する深い敬意が感じられた。今後の展開として、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲を録音する可能性もあるのだろうか、と尋ねる。
「それはまだちょっと分からないけれど、今回の録音には満足しているので、次もあるかもしれないね」
と答えてくれた。演奏活動だけでなく、作家としても活動しているアファナシエフ。今回の来日前にも小説を執筆していたらしく、それもほぼ完成したようである。また、フランスからベルギーへ住居を移し、新しい環境の中で生活していることも教えてくれた。そのベルギーの住まいには庭があり、猫と一緒に暮らしているのだが、新しい小説はその庭から最初のきっかけが生まれたのだという。お約束ではないが、最近、海外の演奏家に会うと必ず聞いている村上春樹について、作家としての意見を伺うと。
「『1Q84』は読んだよ。パラレル・ワールドの作り方がとても上手いと思ったけれど、うん」
と、あっさり答えてくれた。アファナシエフは常に興味深い演奏家である。