©Katsuki Abe

情け容赦ないフィッシャーマンが波の谷間に咲かせる命の花は――唯一無二の熱い個性をTHA BLUE HERBがディレクションして完成した最高傑作!

いまならやれる

 KMCが通算4枚目のアルバム『I’M A FISHERMAN’S SON... POINT OF NO RETURN』をTHA BLUE HERB RECORDINGS(以下TBHR)からリリースした。もちろんビートは全曲THA BLUE HERB(以下TBH)のO.N.O。この知らせは00年代後半から10年代半ば頃の日本語ラップを通ってきた人にとって大きな驚きだったはずだ。両者の邂逅は意外にも10年以上前まで遡る。

 「O.N.Oさんと初めてお会いしたのは〈3.11〉の直後ぐらい。clubasiaの2階でやったライヴを観に来てくれて、終わったあとに〈KMC、マブいぜ〉とだけ言ってどっかに行っちゃったんです(笑)」。

KMC 『I’M A FISHERMAN’S SON... POINT OF NO RETURN』 THA BLUE HERB RECORDINGS(2024)

 アルバム収録曲“SORRY FOR THA WAIT”で歌われているエピソードだ。KMCは順風満帆とは言えないキャリアを過ごしてきた。漁師の息子として生まれ、パンクとヒップホップにハマって、2005年に静岡から上京。18歳の彼の運命を変えたのは、渋谷のハチ公前で遭遇したサイファーだ。生まれて初めて人前でフリースタイルした。そこにいたのは後にシーンの重要人物になっていくDARTHREIDERをはじめとしたDa.Me.Recordsの面々。そこから一気に交友関係が広がり、2008年にはSTUTSとも出会っている。数年かけて2人で作り溜めた楽曲は初のアルバム『東京WALKING』(2010年)にまとめられた。同作はKMCが思っていたほどのレスポンスを得られなかった。そんな彼が見ていた景色は、新作中の“CLASSICS”で語られている。

 「あの頃はヒップホップ、クラブ・ミュージック、パンク、ロックがアンダーグラウンドでぐちゃぐちゃに混ざってた。いわゆるクラシックスの話は誰にでもできるけど、こういうのをクラシックって言えるのは、あちこち直感と出会いに任せてずっと謎の動きをしてた俺だけだろうと思ったんです」。

 一方のTBHはその頃すでに確固たる評価を得た孤高の存在だった。2011年といえば、傑作『TOTAL』を制作していた時期。すでに〈フジロック〉をはじめとするフェスの常連となっていた。そんなヒップホップ・グループは他にいなかった。当然KMCもTBHをリスペクトしていた。ゆえにO.N.Oとの出会いは晴天の霹靂だったはずだ。KMCは当時を振り返る。

 「〈マブいぜ〉が界隈で話題になって、O.N.Oさんがasiaに来るとスタッフから〈今日いるよ〉って自分に連絡が来るようになったんです(笑)。〈俺なんか相手にされないだろう〉と思ってたけど、友達に背中を押されて声をかけたら〈一緒に曲を作ろう〉と言ってくれたんです。すぐにトラックを送ってもらったのに、俺はリリックを書くのに3年もかかってしまった。実はその頃から一緒にアルバムを作ろうみたいな話は出ていたんです。でもチャレンジする勇気がなかった」。

 O.N.Oと初めて制作した“Singin’ The Rain”は2015年の2作目『KMC! KMC! KMC!』に収録されている。再起をかけた作品だったが5年のブランクは決して短いものではなく、気合と努力はまたも空回りとなった。そんな過去を今作で〈必死になる悪あがき/そして時代は変わる/俺はただの置き去り〉(“SORRY FOR THA WAIT”)と振り返る。

 「あの頃は何もかもうまくいかなかった。大海原を一人で彷徨ってる状態。平日はコールセンターでバイトして週末にライヴしてました。自分だけ取り残されたような、負け犬になった気分でしたね。でもSTUTSとはずっと制作してました。一緒にミックステープを作ったり、アルバムに呼んでくれたり。〈フジロック〉や武道館のステージにも連れて行ってくれた。クラウドファンディングで制作した前作『ILL KID』(2022年)では古い付き合いのOMSBとHi’Specも協力してくれました。それこそ今回のアルバムは、OMSBの『ALONE』リリパに行った後にCONTACTでTBHを観て、『ILL KID』のCDを渡した時にO.N.Oさんが〈一緒にアルバムを作ろうよ〉と言ってくれたことがきっかけなんです。いろんな人に助けてもらいながら『ILL KID』を作ったことで、ようやくありのままの自分が受け入れられるようになりました。いまならやれると思いました」。