演歌、ニューミュージックへの進出
極上の短編小説のような”喝采”を皮切りに、吉田 × 中村のコンビが書いた“劇場”“夜間飛行”からなる〈ドラマティック歌謡3部作〉を歌ったのち、1975年には演歌路線へ。かねてより「船村演歌ならやってみたい」と口にしていたちあきが、そんな大作曲家・船村徹と組み、シングル“さだめ川”“酒場川”をリリース。とりわけ、当初“酒場川”のB面曲として発表され、83年に細川たかしがカバーして大ヒットしたことでも知られる“矢切の渡し”は、ちあきの演歌における代表曲となっている。
1977年からはニューミュージックの分野に進出し、中島みゆきが“ルージュ”、友川カズキが“夜へ急ぐ人”、河島英五が“あまぐも”を提供。特に、〈おいでおいで〉のフレーズで有名な“夜へ急ぐ人”は、「NHK紅白歌合戦」での狂気に満ちたパフォーマンスが「放送事故か!?」と視聴者の度肝をも抜き、NHKの山川静夫アナウンサーが「なんとも気持ちの悪い歌ですねえ」とコメントしたことも語り草となっている。また、そんな“夜へ急ぐ人”を収録したアルバム『あまぐも』は、ミッキー吉野をはじめとしたゴダイゴのメンバーによる名アレンジおよび名演奏のもと、ちあきがシンガーとしての凄みを爆発させた名盤だ。
シャンソンやファドに挑戦、役者としても活躍
1978年、ちあきは俳優の宍戸錠の実弟である郷鍈治との結婚を機に、「ヒット曲を追うのではなく、自分が歌いたい歌にじっくり取り組みたい」と、しばしの充電期間に入る。80年に芸能活動を再開させると、翌年にはコロムビアを退社した東元がビクターで創設したInvitationレーベルに移籍し、“喝采”以来の仲である東元のもとで、シャンソンに取り組んだ『それぞれのテーブル』、ジャズを歌った『THREE HUNDREDS CLUB』、ファドに挑戦した『待夢』、そして日本の名曲をカバーした『港が見える丘』という4枚のアルバムを発表していく。
さらに、ちあきはテレビドラマや映画、そしてコミカルな演技が光った〈タンスにゴン〉のCMをはじめ、役者としても活躍しながら独自の音楽活動を展開した。1988年には、東元を追うような形でテイチクへ移籍し、吉田が作詞、船村が作曲した“紅とんぼ”がヒットして11年ぶりに「NHK紅白歌合戦」に出場したほか、翌年には初の舞台作品となるミュージカル「LADY DAY」にジャズシンガーのビリー・ホリデイ役で主演、ほぼひとり芝居で進行するストーリーでの歌と演技が絶賛された。
活動休止後、“黄昏のビギン”が話題に
1991年にはカバーアルバム『すたんだーど・なんばー』を発表。同作からの先行シングルとなった“黄昏のビギン”は、永六輔が作詞、中村八大が作曲し、水原弘が1959年に発表していた隠れた名曲を、服部隆之によるアレンジでカバーしたもの。1992年9月に最愛の夫が他界し、無期限で芸能活動を休止して以降、一度もファンの前に姿を現していないちあきだが、その間、彼女が歌った“黄昏のビギン”が繰り返しCMソングに起用されたことで、その歌声は忘れ去られるどころか世代を超えて多くの人の胸を打ち、結果、楽曲自体の知名度を高めることにも貢献、多くのアーティストによってカバーされ続けるスタンダードナンバーへと導くこととなった。