民謡歌手がかっこいい存在でありたい
誠ぐぁーさんのように!
多種多様な唄の文化が華開く地、沖縄。そのなかでも宮古島を中心とする宮古列島には、沖縄本島とも八重山諸島とも異なる唄の文化が育まれてきた。
1992年生まれの松原忠之が2021年6月にリリースしたファースト・アルバム『清ら海、美ら島 ~あやぐ、宮古の歌~』は、そんな宮古民謡の奥深さをフレッシュな感性と共に描き出した傑作だった。松原自身は沖縄本島の浦添市に生まれ、宮古出身の祖父母や宮古生まれの母親と共に育った。彼にとって宮古の民謡は親や祖父母の文化だったわけだが、宮古民謡の第一人者であった国吉源次の宮古民謡教室に幼少時代から通い始めると、すぐさまその世界に魅了されたという。
ファースト・アルバムには長年の鍛錬の成果が披露されていたわけだが、前作以来3年ぶりのアルバムとなる新作『美ぎ宮古ぬあやぐ~青い海ぬ如ん、太陽ぬ如ん~』は、〈自分が宮古民謡の伝統を受け継いでいくのだ〉という強い意志を感じさせる作品となった。そうした決意を新たにした背景には、師匠である国吉源次が前作リリースの直前に死去したことも無関係ではないだろう。松原はこう話す。
「源次先生がここまで守ってきたものを自分も受け継ぎ、次に繋いでいかないといけないという意識はより芽生えました。アルバムを出したことによって、歌うことに責任感が出てきたんですよ。以前はただ歌うことが楽しかったんですけど、今まで以上に真剣に取り組まなければと思うようになりました。
亡くなってから師匠のすごさを痛感する場面も多くて。宮古の素晴らしい歌を自分の身体を通してどれだけ綺麗に伝えることができるのか、そこに情熱を注いだ方だったんですよ。源次先生ぐらいまっすぐじゃないとできなかったと思います」
芸能における〈伝承〉のあり方とは決してひとつではない。松原が考える宮古民謡の伝承の形とは、ひとつの型を何十年も忠実に受け継ぐようなものではなく、より柔軟でしなやかなものでもあるようだ。
「民謡の世界って、同じ唄を何十年も歌うわけじゃないですか。そのなかで進化もするし、そこに民謡のおもしろさがあると思いますね。琉球古典はたとえ100名で同時に演奏しても、ひとつの音になるところにロマンがあるんですけど、民謡はその人なりの色が出ていいものだと思っています。たとえば、自分は源次先生が70歳のときの弟子なんですけど、先生が50歳のときの弟子とは習ったことが違うんですよ。20年の歳月のなかで、源次先生はひとつの節を綺麗に聴かせるために試行錯誤を繰り返してきたので、常に進化してきた部分があるんです」
新作『美ぎ宮古ぬあやぐ~青い海ぬ如ん、太陽ぬ如ん~』には、前作以上に松原忠之の〈味〉が出ている。特に冒頭を飾るオリジナル曲“我が先生”。師匠に捧げられたこの曲は、松原にとって(民謡では)初めてのオリジナル曲となる。
「リスペクトレコードの高橋さんから〈先生への思いを歌ったオリジナルをやってみないか〉という提案があったんですよ。自分としても以前から先生への思いを唄にしてみたいという気持ちがあったので、やらせていただくことにしました」
選曲は前作以上にヴァラエティー豊かだ。“ばんがむり”のような子守唄があれば、豊年祭や雨乞い儀礼の際に歌われてきた“雨乞いぬクイチャー”、そして宮古の暮らしと歴史が息づくさまざまな民謡など、実にカラフルな内容となっている。
「前のアルバムは(宮古民謡の)王道中の王道の選曲だったので、そうした曲の傍にあるようなものもやりたかったんですよ。宮古の民謡って沖縄の舞台でもあまり(演奏の)時間をもらえる機会は少ないので、何をやるかというと“なりやまあやぐ”とか代表的なものになりがちなんですね。そういう場所で歌われないものでも、いいものがたくさんあるんですよ」
注目ポイントは宮古島出身のシンガーソングライター、下地イサムが“家庭和合”“ばんがむり”という2曲に参加していることだ。
「下地さんの最初のシングル(2002年の『我達が生まり島』)は小学生のころから聴いていました。下地さんも源次先生のところに習いに来ていたので、シングルを教室で買ったんですよ。下地さんの唄は意味がわかる人からするとめちゃくちゃおもしろいので、自分の母親もよく聴いてましたね」