©Takashi Okamoto

ベートーヴェンのソナタ10曲の録音は長年の強い願い

 ヴァイオリニスト、前橋汀子が60年以上に及ぶキャリアで初めての『ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ全集』(第1~10番)をヴァハン・マルディロシアンのピアノで完成させた(ソニー)。2023年6月から2024年1月にかけ、岐阜県の〈クララザールじゅうろく音楽堂〉で4度に分けたセッション録音のCD/SACDハイブリッド盤。第5番“春”と第9番“クロイツェル”の2曲は1986年2月、ドイツのハイデルベルクでクリストフ・エッシェンバッハと同じレーベルに録音して以来38年ぶりの再録音に当たる。解釈の基本に変わりはないが、ベートーヴェンの生涯と一体に見据えたマクロの視点、弦楽四重奏曲の演奏体験などを存分に織り込み、揺るぎない説得力を備えた名盤に仕上がった。

前橋汀子 『ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ全集』 ソニー(2025)

 「エッシェンバッハさんとは全曲録音を考えなかったのですか?」と尋ねると、「当時は〈まだ先がある〉と思っていました」と打ち明けた。以後も何度か全曲録音を考えたが「そう簡単なものではなく、なかなかうまく行かなかったのです」。演奏生活60周年に続く傘寿(80歳)の境涯に至り「残された時間の中で〈どうしても10曲の録音を残したい〉と、今まで以上に強い願いを抱くに至ってソニー・ミュージックレーベルズの杉田元一さんのお世話になり、ついに完成しました」

 レコーディングには元々、慎重だった。「今は20~30代の奏者もどんどん作りますが、私は〈後世に残るものだから〉と思ってなかなか踏み切れず、周囲に背中を押される形で最初のCD(小泉和裕指揮東京都交響楽団との1982年録音『ツィゴイネルワイゼン』=ソニー)を出したのは40歳近くでした」。以後ソニーでは「小品100曲の大変なプロジェクト」を完成する一方、チャイコフスキーやメンデルスゾーンなどヴァイオリン協奏曲の名曲をヨーロッパで録音、J・S・バッハの『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ』全6曲も1989年、2017~18年の2度にわたって完成するなどディスコグラフィーを充実させてきた。「まだ先」と思ったベートーヴェンも2023年までの10年を費やし原田禎夫(チェロ=元東京クヮルテット)、久保田巧(ヴァイオリン)、川本嘉子(ヴィオラ)と弦楽四重奏曲の演奏会を重ねて距離を縮め、先ずは『ヴァイオリン協奏曲』を秋山和慶指揮オーケストラ・アンサンブル金沢とのライヴ録音(2021年11月24日、石川県立音楽堂)でリリース。さらに、念願のソナタへと到達した。

 「ベートーヴェンの生き様や叫びが凝縮された晩年の弦楽四重奏曲を弾いて見えてきたものを踏まえ、初期のヴァイオリン・ソナタである作品12に戻ると、以前とは全く異なるアプローチが生まれ、実際に演奏し録音したい気持ちが強まりました」。

 ピアノのマルディロシアンは1975年生まれのアルメニア人。前橋はイヴリー・ギトリス(1922―2020)との共演を聴き「あの自由奔放なヴァイオリンにすごく上手に合わせる、しかもうるさくない」と感心、演奏会での共演を申し出た。指揮者としても活動するだけに、音楽の捉え方が非常に立体的だ。

 初期の覇気、中期の潤い……と作品番号順に聴いて前橋の至芸を堪能したが、最後のディスク4に収められた“クロイツェル”と第10番には格別の味わいがある。

 「“クロイツェル”はある程度技術を磨けば何となく形がつくとも感じるのですが、第10番には40歳のベートーヴェンの人生が凝縮され、おどけたようなところもあれば、たった1つの音が胸にグーっと突き刺さる箇所もあり、若い時の私には理解を超えた作品だった気がします」と前橋もいい、作曲家の内面に想いをはせる。

 「後半生は若い時に望んだ生き方ではなく、苦しかったのは確かでも、ベートーヴェンの人生は一貫してベートーヴェンであり、他に類例のない人格と音楽だったと思います。例えは適切でないかもしれませんが、ヴァイオリンのストラディヴァリウスやグヮルネリ・デル・ジュスが2度と現れない名器であるのと同じかそれ以上にベートヴェンは不世出、存在自体に感謝します」

 


前橋汀子(Teiko Maehashi)
日本を代表する国際的ヴァイオリニストとして、その優雅さと円熟味に溢れる演奏で、多くの聴衆を魅了してやまない。これまでに日本芸術院賞、第37回エクソンモービル(現・ENEOS音楽賞)音楽賞洋楽部門本賞受賞。紫綬褒章、旭日小綬章を受章。
使用楽器は1736年製作のデル・ジェス・グァルネリウス。