松本伊代がキャリア初となるカバーライブ〈Iyo Matsumoto “Adagio”〉を開催した。松本が〈今、歌いたい曲〉を披露した本公演は、シティポップを代表する名曲から春ならではのナンバーまで、その選曲も興味深いものだった。2ステージ制で行われたライブより、2nd Stageの模様をライターの桑原シローがレポートする。 *Mikiki編集部
ミニマムな編成で届けた杏里、EPOの名曲
松本伊代の歌声の妙味を味わい尽くす機会。3月22日に渋谷JZ Brat Sound of Tokyoで開催された〈Iyo Matsumoto “Adagio”〉はそう呼ぶに相応しいコンサートとなった。デビュー以来、彼女が初めて行ったこのカバーライブは、音楽監修を彼女の良き理解者のひとりである船山基紀が担当。そしてバックを務めるのは、毎年秋に開催している恒例ライブとは異なり、ギターの増崎孝司、キーボード/マニュピレーターの安部潤のふたりだけというミニマムな編成となっていたが、他アーティストの楽曲と対峙することでボーカリストとしての高い資質や能力を改めて証明する場としては、この選択は間違いなく正しいものに思えた。
会場がジャズ系ミュージシャン御用達のライブハウスということもあり、通常モードとは異なるラグジュアリーな雰囲気が色濃く漂っていて、客席の間を縫いながゆっくりとステージに向かう今夜の主役を眺めつつ、さぞかし緊張されているんだろうな、なんて想像をしていた。だが、ピンクのハッピを着込んだ親衛隊の皆さんが放ついつもどおりのかけ声(ボリュームも通常仕様)のおかげで硬いムードが一気に霧散する。

そこにふわりと浮かんだ〈お気に入りの唄~♪〉という聴き慣れたフレーズ。オープニングを飾ったのは、杏里のデビューシングル“オリビアを聴きながら”のカバーで、伊代さんのアカペラからライブがスタートした。なんとまあ濃艶な声だこと。歌の端々に若干緊張の色は感じられるものの、独特の滑らかな風合いはいつもよりもストレートに伝わってきたし、初っ端から、これは貴重なライブになるな、という予感めいたものを感じずにはいられなかった。
そして続いての“DOWN TOWN”で宴は一気に賑やかな様相に。今年デビュー50周年を迎える伝説的ポップロックバンド、シュガー・ベイブ唯一のシングル曲にして、「オレたちひょうきん族」のエンディングテーマに使われてヒットしたEPOの代表曲でもあるが、土曜の晩の景色を七色に演出するマジカルなパワーを持ったこの曲と、伊代さんとの相性がこんなにいいだなんて正直驚き。観客をウキウキさせるようなパフォーマンスに、MCの際には「カワイイ~」という歓声が飛び交っていたが(止まらないコールに「強制じゃないのよ? ありがとうございます(笑)」という、いかにもな感じの返しが彼女から成されていた)、それはみんなの正直な心の声だったことはあの場に居た誰だってわかっていたはず。ちなみにこのとき公演タイトル〈Adagio〉の意味について言及があり、「ゆっくりと、っていう意味で。私にピッタリかなと思って……」とのことだった。

ノスタルジーをくすぐる松任谷由実の春曲
今回のカバーライブには、おなじみの曲も含まれている。3曲目に登場したザ・フォーク・クルセダーズの“悲しくてやりきれない”は、彼女が1989年にリリースしたシングル曲であり、つまりは松本伊代の歴史の一部でもある。ここで味わえたのは、胸に沁みる素晴らしい低音ボイス。一瞬登場するファルセットも鮮やかだったし、それを目と鼻の先で味わえたことの幸せをじっくり噛みしめた次第。ゆっくりと心をほどいていくセピア色のメロディー。それは続いての“黄昏のビギン”でも存分に味わえた。船山プロデューサーからの提案でセットリストに入れたとのことで、ちあきなおみバージョンを参考にしたそうだが、独自な叙情味を湛えたカバーになっていて美味だった。


個人的なハイライトは、4曲目に登場した松任谷由実の“最後の春休み”だ。季節柄もあってセレクトされたと思われるが、ノスタルジーをくすぐる歌唱があまりに絶品で、鼻のグスグスが止まらなくなったほど。
2回目のMCでは「今日は“センチ”(=“センチメンタル・ジャーニー”)は歌いません。歌っちゃったら途中で席を立っちゃうかもしれないでしょ?」とキッパリ宣言をした伊代さん(「どんな曲だったっけ?」とトボけてみせたりも)。客席からは当然「え~?!」と声が挙がるが、そんなお約束なやり取りがなんとも微笑ましく、アットホームな雰囲気を良い具合に広げる効果も生んでいた。