サンバ――ブラジルの心臓の鼓動をめぐる物語
80年代初頭からワールド・ミュージック関係の文章を書き始め、90年代には民俗音楽配給のライス・レコードを立ち上げた著者が満を持して書き下ろしたブラジル音楽の通史。コック稼業の傍ら頻繁にブラジルに通い、遂には現地の古老サンバ音楽家たちを集めてアルバムを作ったのが86年(その時26才!)で、その後もたくさんのアルバムを現地で単身制作してきた猛者である。ブラジル本国ではほとんど忘れ去られた存在だった老音楽家たちと親しく交わる中で何十年も前の音楽現場の実情を直接聞き、大量の原書を読んできた著者にしか書けなかった第一級の資料だ。

全体の背骨になっているのはサンバである。このブラジルの国民音楽がどのようにして生まれ、そこからどんな枝葉が伸びてゆき、現在のブラジル音楽につながっているのか……という1世紀以上にも及ぶ物語が綴られているわけだが、その筆は常に地球規模の社会学的視点に支えられており、政治や経済などの状況、あるいはキューバやメキシコなど中南米諸国の音楽、米国のジャズやブルースなどとの密接な絡まりの中で話が展開されてゆく。ポルトガルつながりでインドネシアのクロンチョンとの関係に言及することもしばしばだ。
物語は当然ながら欧州の帝国主義や奴隷貿易から始まり、欧州音楽や楽器の流入、モジーニャ(17~18世紀に生まれたブラジル独自の混血音楽)やショーロの誕生、レコード産業の成立などを経て、ようやく本丸のサンバに突入。その誕生は1910年代だが、第一次黄金期がジェトゥリオ・ヴァルガス大統領(在任1930~45年)による強権的な国民国家建設に伴走したものだったという事実の多角的検証や、カルメン・ミランダの偉大さ、影響力の大きさの再確認は重要だ。そして戦後、ナイトクラブ文化の開花やボレーロ流入の影響下でサンバ・カンソーンが隆盛する中からジョビンやジョアン・ジルベルトがより洗練された都会的なサンバ=ボサ・ノヴァを創造していった。その後、70~80年代のMPBやブラジリアン・ソウル、サンバの第二次黄金期、国内ロックやレゲエの人気などに続き、ヒップホップやファンク・カリオカなどへとつながってゆくわけだが、いつも時代も著者の耳はそれらの底流に流れ続けるサンバのリズムと声を忘れていない。
膨大な量の注釈がついた計522ページ。日本語で書かれたブラジル音楽通史として、これを超える書籍はとうぶん望めないはずだ。