
俊英の到達したクラシック/ジャズの交錯する地平
――初めに、ご自身の音楽的背景を教えてください。
「母はソプラノ歌手、祖父ジャン=クロード・カサドシュは現役の指揮者です。父はアマチュアですが、熱心なピアノ弾きで、僕がピアノを始めたのも父の影響です。両親の離婚後、母がジャズヴァイオリニストのディディエ・ロックウッドと再婚し、彼が僕の音楽的メンターになりました。即興やジャズの世界を身近に感じ、3歳でヴァイオリンを始め、6歳でジャズミュージシャンになると決意しました。兄のデイヴィッド(ジャズトランペット奏者)とバンドを組み、13歳頃から演奏仕事を始めましたが、常にクラシックも大切な存在で学び続けました。クラシックピアニストとしても協奏曲や室内楽を演奏しています。ジャズとクラシックどちらも欠かせない存在です」
――両分野を架橋する理想的なピアニストは?
「非常に難しい質問ですね。クラシックではアルゲリッチやリパッティ、ミケランジェリらが理想ですが、ジャズとクラシックの双方を高い次元で行える音楽家は稀です。キース・ジャレットは稀有な例でしょう。即興性、音色の美しさに加え、バッハやモーツァルトの録音も素晴らしい。他の候補にチック・コリア、グルダ、日本では小曽根真が挙げられるでしょう」
――即興の際に意識していることはありますか?
「クラシック的な質感を重視します。ジャズ演奏では特にバンドだとマイクで増幅されますが、クラシックでは自然なダイナミクスの使い分けが不可欠です。音の響き、質感、そして多様なテクスチャーを、音符そのものと同じくらい重視して取り組んでいます。何を弾くかより、どんなサウンドを出すか、ということです」
――今作でモーツァルトを取り上げたきっかけは?
「3年前に舞台でモーツァルト役を演じ、彼になりきって演奏したことがきっかけになりました。“レクイエム”“魔笛”“ドン・ジョヴァンニ”など晩年の作品には成熟と悲しみ、そして無邪気さが共存している。それを即興で現代的に再解釈し、本質を守りつつ新しく自発的な表現に昇華したいと考えました」
――少し現代的技法も聞こえます。
「クラスターや低音弦をミュートし弾いてます。重要なのは、原曲を徹底的に理解し、構造を体得すること。それで初めて逸脱が可能になります。常に原曲に戻ってこれる安定感が大事です。モーツァルトの音楽を基盤に、リズムやハーモニーを変化させて遊びました」
――制作日数にどれほどかけましたか?
「(前述の舞台の経験を踏まえ、即興性を意識し)3日間で仕上げました。初日の演奏が固かったので、友人のエンジニアに〈人前でやるように演奏しては〉と提案され、人を招いて録音したら一気に自由に弾けました。翌日も違う人々を招き、そこからテイクを選びました。生き生きとした作品になりましたね」
――印象深い演奏体験は?
「音響の素晴らしい小さな教会で、悲劇的な“大ミサ曲ハ短調”のキリエを弾いた体験が忘れられません。空気が張りつめ、観客の息づかいが伝わる。そこに魔法の瞬間が生まれます。また母が事故で生死をさまよった際、イ短調ソナタやホ短調ソナタを即興しながら、自分と照らし合わせた経験も深く心に刻まれています」
――モーツァルト演奏で印象深い思い出は?
「旋律はどれも口ずさめるし、悲劇的でありながらも生命力に溢れ、希望や人間本来の感情が宿っています。世界が不安に満ちた今こそ、必要なものです。モーツァルトを演奏することで人々に心の避難所を提供できるのは幸せなことです」
――若いピアニストへのメッセージを
「文化への理解と敬意を忘れずに。ジャズはアフリカ系アメリカ人の文化的背景があり、クラシック音楽は何世紀にもわたる歴史がある。即興する場合、物語を生み出す構成力が必要です。素材を学び、組み合わせ、自分の世界を作り出してほしい。両者を深く学び本物の表現を目指してください」
――最後に日本のファンに向けて
「11月に来日します。日本は第二の母国のような存在で、皆本当に集中し、情熱を持って音楽に接してくれます。毎回違う演奏になるはずなので、ぜひ楽しみにしていてください」
トーマス・エンコ(Thomas Enhco)
1988年、パリ生まれ。幼少期よりヴァイオリンとピアノでクラシック音楽の基礎を学び、CMDLおよびパリ国立高等音楽院で研鑽。ヴァーヴ、ドイツ・グラモフォン、ソニー・ミュージックなどから作品を発表し、年間100公演以上を世界各地で行う。主なアルバムに『Feathers』『Bach Mirror』『Thirty』『A Modern Songbook』などがある。クラシック奏者として国内外の主要オーケストラと共演し、自作の協奏曲や交響曲も手がける。映画音楽や室内楽作品も多数発表し、SACEMジャズ大賞など受賞歴多数。ジャズ・ピアニストとしてもソロやトリオ、デュオ形式で活動し、クラシックと即興を融合させた独自のスタイルで高く評価されている。
LIVE INFORMATION
大人のための音楽堂 tic! tac! toe!
トーマス・エンコ(ピアノ)
2025年11月16日(日)神奈川県立音楽堂
開場/開演:17:40/18:00
■曲目
新譜『モーツァルト・パラドックス』から選りすぐりをお届けします。
https://www.kanagawa-ongakudo.com/d/otona2025_enhco
トーマス・エンコ ピアノJAZZリサイタル〜モーツァルト・パラドックス〜
2025年11月24日(月・祝)茨城県・坂東市民音楽ホール
https://www.city.bando.lg.jp/page/page000646.html#jazz