ロー・ボルジェスが死去した。
ロー・ボルジェスが亡くなったことは、ブラジルのメディアG1などが報じている。ボルジェスは10月17日から薬物中毒のため入院しており、集中治療室(ICU)で治療を受け、人工呼吸器が必要な状態だったという。10月25日には気管切開手術を受けたが、11月2日の20時50分に亡くなったそうだ。死因は多臓器不全で、73歳だった。
ロー・ボルジェスことサロマォン・ボルヘス・フィーリョ(Salomão Borges Filho)は1952年、ブラジルのミナスジェライス州ベロオリゾンテ生まれの音楽家。1960年代、少年時代にきょうだい(11人兄弟の6番目の子どもだった)や近所の友人たちと地元のストリートで歌や演奏を始めた。
1962年、10歳のときにボルジェスはミルトン・ナシメントと出会って親交を深めた。1970年、18歳だったボルジェスはブラジル軍に従軍する予定だったが、ミルトンに誘われて音楽制作のためリオデジャネイロに移住、彼のアルバム『Milton』に参加した。
1972年には、不朽の名作『Clube Da Esquina』をミルトンとの連名で完成させた。ボルジェスが作曲して自ら歌った“O Trem Azul”“Um Girassol Da Cor De Seu Cabelo”“Paisagem Da Janela”といった名曲を含むこのアルバムは、MPBのみならず、ブラジル音楽史上最高の作品の一つとして今に至るまで高い評価を受けている。なお、同作の邦題は『街角クラブ』だが、これは1960年代、ボルジェスとミルトンがともに演奏していたディビノポリス通りとパライゾーポリス通りの音楽コレクティブの名前に由来している。
同年、『Clube Da Esquina』の収録曲を聴いたレーベル、オデオンがソロデビューを持ちかけ、セルフタイトル作『Lô Borges』をリリ-ス。同作で成功を収めたものの、その後はバイーア州でヒッピー生活を送るなどしていたボルジェスは、1978年になって名盤の続編『Clube Da Esquina 2』(ミルトンの単独名義)へ参加。翌1979年、彼は2ndソロアルバム『A Via Láctea』をようやく完成させている。
1980~2000年代もマイペースで気ままな活動を続けていたが、2003年、ロックバンドのスカンクが発表し、作曲者の1人として参加した曲“Dois Rios”がヒットしたことで再注目された。2000年代以降は、ソロアルバムやスカンクのボーカリスト、サミュエル・ホーザとの共演作などをコンスタントに発表していた。
アークティック・モンキーズのアレックス・ターナーに影響を与えるなど、ロックやジャズといったジャンルと国境を超えて幅広いアーティストをインスパイアしてきたボルジェスの音楽。日本でも彼の作品は非常に愛されており、Lampの染谷大陽などが影響を受けたことを公言している。
『Clube Da Esquina』はもちろんのこと、『A Via Láctea』を筆頭にソロでもMPBの名盤を遺したボルジェスの影響力は計り知れない(ちなみに、私がもっとも愛するMPB作品は『A Via Láctea』だ)。全盛期と言っていい1970年代に発表した作品は少ないものの、歌い手として、作曲家として、彼はまちがいなく〈ミナスの音〉を象徴する音楽家だった。素晴らしい音楽を生み出してくれたことに、今は感謝の念でいっぱいだ。