喪失に向き合うことで、人生を切り拓く――ブラームスの後期作品に対峙して
遺書のようなものだ、とピョートル・アンデルシェフスキはブラームスの後期作品集を評した。ブラームスはどこまでも秘密を隠しとおそうとする、だからこそ解き明かしたくなるのだ、と。
「喪に服す、という言葉がありますが、人生の時間が移り変わり、新たな地平へと差しかかるなかで、若さや希望、永遠というものがあるのだという思いを後に残して行くことになる。懐かしみ、喪に服す、一種の諦念というか喪失の感覚を、ブラームスの後期作品に色濃く感じました」とアンデルシェフスキは言う。「別れを告げるということをきちんとやり遂げないと人生はよくなって行かない。喪に服すことの連続が人生です。生きて行くことは、生まれ出た瞬間から、なにかに別れを告げる時間の積み重ねでしかないのかもしれない」。
しかし、アンデルシェフスキの新たな関心が、ブラームスの晩年に向かったのは少々驚きでもあった。ベートーヴェンやシューマンの剥き出しの真率さと直截な表現を愛してきたピアニストである。晩年の作品に向かっても、ブラームスには曇りや濁りがつきまとう。謙虚で慎み深く内向的、遠慮がちで躊躇いがちなブラームスの頑固な秘めやかさが、アンデルシェフスキ自身の心の課題として直観されてきたのだろうか。
「私の人生の歩みがどこか重なるところもあったのだと思います。人生のなにかが変わりつつあり、それも良いほうに行っているという感覚はある。人生のある時期をきちんと看取り、喪失に向き合うこと。人生のリアリティは喪失にだけある。一日生きるごとに、一日を失う。望むものが手に入らないと理解することもそうです。それを受け容れ、正面から静かに向き合うことに美しさを感じるようになりました。ただ片付けるのではなく、失ったこと自体を生きるのが、喪に服すことだと思います。なぜかはわかりませんが、ブラームスのこの音楽にそれをつよく感じるのです」。
ある意味で、ブラームスの後期連作を人生の同伴者のように感じるということだろうか。「そうです。2019年に楽譜を見出して、op119の第3曲と第4曲に興味を惹かれた。非常にアンビギュアスな音楽ですよね。シューマンのようにダイレクトではなく、ブラームスはちょっとだけみせて、あとは隠しておく。自分のためだけにとっておく、最後まで決して誰にも知り得ない終生の秘密というか。彼のそうした秘密を引き出して、もっと語ってくるように、おそらくこうだと想像することにこそ、これらの作品の美しさはあると感じます」。そうして60歳にかけて書かれた4つの連作曲集 Op. 116~119から12曲を選びぬき、調性などの流れを配慮しつつ、アンデルシェフスキは自身の選集をディスクにまとめた。
「ブラームスの後期作品は、自由とは孤独を意味するのか、と問いかけます。私にとってその答えはイエスです。誰かに縛られることなく一生を送ったという意味では、ブラームスは非常に自由でした。健康にも、経済的にも恵まれていた。自由で孤独、しかしそこには悲しみがある。人生をしくじってしまったのではないか、という疑問が起こってくる。この音楽の美しさは、彼がなにを隠そうとしていたのかということにかかっている。彼に近づこうとし、いろいろと推測するのだけれど、ほんとうのところはわからない。ブラームスは隠しごとがもっとも多い作曲家でしょう。インテルメッツォ Op. 116-4はこのディスクの核心だと思います。この音楽はどこへも行かない。なにかを語りかけるようでいて、なにも話さない。だから決して満たされることはないけれど、私たちはそれを当然と受けとめるべきなのです」。
たしかに諦念もあり、嘆息も混じってこようが、さまざまな感情が籠められ、そこには飽くなき情熱も響いている。
「でも、喪に服すというのは、悲しいことではないと思う。いちばん悲しいのは、喪がないこと。それがさびしい。私たちは生きるために、喪に服すのだから。向き合うことですよ。喪失に対峙することで、人生の異なるレヴェルに行けるのかもしれない……」。
ピョートル・アンデルシェフスキ(Piotr Anderszewski)
ウィーン、ベルリン、パリ、ロンドン、ニューヨーク等世界を代表する会場から繰り返しリサイタルに招かれる他、ベルリン・フィル、パリ管、ロンドン響など各国を代表する楽団と共演。ヨーロッパ室内管はじめ弾き振りの機会も多い。2000年よりワーナー・クラシックス専属。数々の録音はショック賞、エコー賞、グラモフォン誌ピアノ部門年間最優秀賞など国際的評価を得ている。
LIVE INFORMATION
宮崎国際音楽祭
鍵盤の詩人アンデルシェフスキ、究極の室内楽
2026年5月5日(木・祝)メディキット県民文化センター 演劇ホール
開場/開演:14:15/15:00
■曲目
ブラームス:ピアノソロ曲(インテルメッツォ Op. 116-4 ほか)
ショスタコーヴィチ:ピアノ五重奏曲 ト短調 作品57
オーケストラで描く「深き陰影と若き息吹」
2026年5月10日(日)メディキット県民文化センター アイザックスターンホール
開場/開演:14:15/15:00
■曲目
モーツァルト:ピアノ協奏曲 第24番 ハ短調 K. 491(弾き振り)
