その歌唱は作曲家への冒涜か大いなる冗談か? それとも…

 時は第一次世界大戦終結後のヴェルサイユ体制に戦勝国であるフランスが酔いしれていた1920年、パリ近郊の貴族の邸宅では慈善目的のサロン・コンサートが今、まさに宴もたけなわ。当時オペラ=コミーク座の人気レパートリーのひとつだった、レオ・ドリーブの歌劇『ラクメ』第1幕で、ヒロインのラクメと侍女によって歌われる美し過ぎる二重唱に続いて、いよいよ主催者であるマルグリット・デュモン男爵夫人が登場する。孔雀の羽を頭に飾りゴージャスな出で立ちの彼女が披露するのは何と《夜の女王のアリア》。モーツァルトの歌劇『魔笛』第2幕で、雷鳴と共に再登場した夜の女王がその邪悪な本性をむき出しにして、娘のパミーナにザラストロ殺害を命じる壮絶なアリアだ。五線譜を離れて遙か上の超高音(三点F音)を連発し、超絶技巧と劇的な激しさを必要とする、プロの世界でも歌えるソプラノ歌手は一握りのこの難曲を、夫人は堂々と壊滅的な“音痴”歌唱で歌いきり、招待客の貴族たちによる儀礼的な拍手喝采を浴びる。この場に紛れ込んでいた野心家のジャーナリスト、ボーモンは、翌朝の新聞で彼女の歌唱を「心をわし掴みにする声、悪魔を追い払う程の迫力」と絶賛。これに気を良くしたマルグリットは彼に誘われるまま、今度はパリで開かれる音楽会に出演して本物の観客を前に歌うことを快諾。夫ジョルジュの心配をよそに、意気揚揚と会場へと向かうのだが…。

 本国フランスで2015年大ヒットを記録した『偉大なるマルグリット』は史実を元にした伝記映画ではないが、グザヴィエ・ジャノリ監督は、ある「伝説の歌姫」をモデルにこの物語を書き上げた。それは1868年生まれのフローレンス・フォスター・ジェンキンスという米国人女性。幼い頃からオペラ歌手を夢みていたフローレンスは、石油会社社長のジェンキンス氏と離婚した慰謝料と、フィラデルフィアの裕福な銀行家だった父フォスター氏の莫大な遺産で資金を得て、念願の演奏活動をスタート。最初は大都市を中心に自費でリサイタルを開いていたが、程なくして上流階級夫人を中心としたサロンの華となり、貧困者や援助に値する若き芸術家のための慈善興行(その多くが自身の出演するもの)の主催者として手腕を発揮するようになる。特にニューヨークに拠点を移してから年に一度リッツ・カールトンで行われていた演奏会は名高く、招待状の入手は人気のため困難を極め、出席した人々は皆、沢山の花や鉢植えの椰子の木で埋め尽くされた舞台で、背中に付けた大きな羽根をひらひらさせて歌う彼女に惜しみない拍手を贈ったという。そんなフローレンス芸術の頂点ともいうべき大イヴェントは、第二次世界大戦末期の1944年に音楽の殿堂カーネギー・ホールで開催されたリサイタルであり、チケットは何週間も前に完売してプレミアが付くほど、空前の大成功を収めたと伝えられている。そしてその公演から約1カ月後、彼女は心臓麻痺によって76歳の生涯を閉じたのだった。

 幸いにも私たちは、レコードに残された彼女の歌唱をCDなどで聴くことができる。かつてそれ程までに人々を熱狂させたフローレンスの歌声はというと…音楽的には悪夢のように破綻しているとしか言いようがない。音程・テンポ・リズムの全てが破壊された歌唱はまさに超絶“音痴”。しかも、果敢に挑んでいるそのレパートリーは《夜の女王のアリア》を始めとするコロラトゥーラ・ソプラノのための難曲中の難曲がずらり。それらをこの歌姫は迷いのない圧倒的な解釈で自分のものとし、高らかに歌い上げているのだ。

 果たして、フローレンス・フォスター・ジェンキンスの歌唱は作曲家への冒涜か大いなる冗談か? それとも観客を心から楽しませることに成功した真のエンターテイナーなのか? そもそも彼女は自分がウルトラ“音痴”だということをどこまで自覚していたのだろうか?…そのあたりの描かれ方は2016年に全米で公開予定のメリル・ストリープヒュー・グラント共演による伝記映画『Florence Foster Jenkins』(原題)でも注目すべき重要なポイントなのだが、映画『偉大なるマルグリット』でジャノリ監督がマルグリットを通して観客に示した、フローレンスの人生に関する解釈は、恐らくそのBBCフィルム製作によるイギリス映画とは違ったものになっているはずだ。特にクライマックスに向かう驚くべき展開には、フランス人の監督らしい“毒気”が含まれているような気がするのだが…。

 加えて本作の見どころは、現代フランスが誇る人気女優カトリーヌ・フロが演じる、音楽に情熱を捧げる切なくも純真なマルグリットと、彼女の周りでうごめく夫ジョルジュや黒人執事マデルボス、ボーモンやアナーキストの画家キリルら男たちの織りなす人間ドラマに、舞台となる「狂騒の時代」と呼ばれたパリの風景、そして何よりも劇中を彩る珠玉のオペラ・アリアの数々だ。なかでもマルグリットが人生最大のハレ舞台で果敢にも挑戦する、20世紀のDIVAマリア・カラスの名唱で知られるベッリーニの歌劇『ノルマ』第1幕の《清らかな女神よ》は、オペラ・ファンならずとも絶対に見逃せない!

 


モデルになった人物、フローレンス・フォスター・ジェンキンスとは?
誰が聴いても音痴なのに、誰からも愛されたという、まさに“耳”を疑うソプラノ歌手。最初はあっけにとられた人々も、いつのまにか自由で大らかな歌声に魅入られてしまったという。1944年に76歳でカーネギー・ホールの舞台に立った。


映画「偉大なるマルグリット」
監督・脚本:グザヴィエ・ジャノリ『ある朝突然、スーパースター』
作曲:ローナン・マイヤール
出演:カトリーヌ・フロ『大統領の料理人』/アンドレ・マルコン『不機嫌なママにメルシィ!』/ミシェル・フォー『スイミング・プール』/クリスタ・テレ 『ルノワール 陽だまりの裸婦』/他
(C)2015 – FIDELITE FILMS – FRANCE 3 CINEMA – SIRENA FILM – SCOPE PICTURES – JOUROR CINEMA – CN5 PRODUCTIONS – GABRIEL INC.
配給:キノフィルムズ(2015年 フランス 129分) PG12
◎2016年2月、シネスイッチ銀座、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国ロードショー!
www.grandemarguerite.com