孤独の作法。
誰もが自分にしか理解できない孤独の領域を持つと同時に、自分だけが知らない〈あの人〉と呼ばれる世界を生きている。この映画「偉大なるマルグリット」を観る人は、主人公だけが思い知るこの二つの、領域と世界が交わる瞬間の衝撃を味わうだろう。
映画「偉大なるマルグリット」の主人公は、1920年ごろのパリの華やかな社交界を生きる男爵夫人である。趣味、あるいは教養として音楽を楽しむ人である彼女は、ある時人前で歌う機会を得るのだがこのデビューがきっかけで彼女の周囲の人々は、〈彼女は音痴〉であるという公然の秘密を共有することになる。この映画は、本人だけが知らないこの事実を、巧妙に繊細に隠し、利用する人々、そしてそのことを知らない本人の姿に苦悩する人たちと、当の音痴である男爵夫人の無垢な心の動きを悲劇的に、喜劇的に描く。
劇中、音痴である彼女が歌うのは、もっぱら有名なオペラのアリアである。愛という情動に導かれ、翻弄される女性の心を歌うアリアを、夫の愛を取り戻すために歌う。彼女の調子が外れっぱなしの歌声に途惑うのは、映画の登場人物だけではないだろう。演出とはいえその凄まじい音痴ぶりに映画を観る側もある種の途惑いを感じるのではないだろうか。アメリカにはかつてフローレンス・ジェンキンスという音痴な歌手が実在したとはいうが、音痴であることに無自覚な主人公への途惑いを観客は抱えたまま、物語は進んで行く。
しばらくして彼女はある時知人に誘われたコンサートに出演し、社交の空間から離れて、人前で歌うことの喜びを味わい、そのことがきっかけとなり彼女は、彼女自身のリサイタルに奔走する。ようやく血のにじみ出るような練習の結果実現したリサイタルで奇跡が起きる。客席についた夫に向けて放たれたアリア“清らかな女神よ”の、軌道を見失った声が一瞬、素晴らしい歌声に成るのだ。そしてこの瞬間、リサイタルの聴衆も映画の観客も、確かに歌を聴く喜びを感じ、音楽の喜びを知ることになるのだが、彼女はこの奇跡の瞬間の後、倒れてしまう。
このリサイタルの出来事は、この映画の結末ではない。しかし、この魅力的なエピソードによって音痴な主人公は、我々に歌、音楽の素晴らしさをまさに劇的に伝える。フランスにはソプラノ歌手が登場する「ディーヴァ」という映画があった。録音を許さない伝説のディーヴァの歌声を盗んだ(録音した)少年とソプラノ歌手の恋物語である。劇中のディーヴァが歌うアリアに魅了されてオペラを聴くようになった映画ファンもいるようだが、図らずも「偉大なるマルグリット」の音痴な主人公の無邪気で不器用な歌への純愛の形は再びオペラの声に映画ファンを誘うことになるのではないだろうか。
かつて、「ディーヴァ」の声を盗んだ録音という技術は、この映画を劇的に締めくくる。夢と現実が衝突する場所に居合わせることになる我々、観客はもしかするとこののち、この印象的な結末のことを繰り返し、考えることになるのではないだろうか。
最後になったが、マルグリットが誘われるがままに国家を歌ったアナーキーなイベント会場は、1920年代のフランスの自由を求める時代感を細部にこだわって構築、再現された空間であった。そこで叫んだダダイストは、レーニンがモデルではないだろうかなどと想像を駆り立てる。当時の聴衆が楽しんだ有名オペラのアリアのリサイタルと対照的に描かれる当時の現代音楽の作品を歌う歌手のリサイタルは、レパートリーも含め秀逸だ。ぜひ、劇場に足を運んで欲しい。
MOVIE INFORMATION
映画「偉大なるマルグリット」
監督・脚本:グザヴィエ・ジャノリ(「ある朝突然、スーパースター」)
作曲:ローナン・マイヤール
出演:カトリーヌ・フロ(「大統領の料理人」)/アンドレ・マルコン(「不機嫌なママにメルシィ!」)/ミシェル・フォー(「スイミング・プール」)/クリスタ・テレ(「ルノワール 陽だまりの裸婦」) ほか
配給:キノフィルムズ
(2015年 フランス 129分)PG12
http://www.grandemarguerite.com/
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