「GLOCAL BEATS」(共著)「大韓ロック探訪記」(編集)「ニッポン大音頭時代」(著)などの音楽書に携わり、文化放送のラジオ番組「MAU LISTEN TO THE EARTH」でパーソナリティーとしてアジア情報を発信するなど、世界の音楽とカルチャーをディープに掘り下げてきたライター/編集者/DJの大石始が、パワフルでオリジナルな活況を呈するアジア各地のローカル・シーンの現在進行形に迫る連載「REAL Asian Music Report」。第3回では、アジアのインディー・シーンを日本に伝えるために自身のメディアで情報発信しながら、ライヴ/上映イヴェントをオーガナイズするなど活発に動き回る山本佳奈子さんに話を訊いた。 *Mikiki編集部
2016年1月23日/24日、沖縄とアジアの音楽ネットワーク構築を目的としたカンファレンス〈Trans Asia Music Meeting 2016〉が沖縄県那覇市で初開催された。北京やウランバートル(モンゴル)、台湾、ソウル、香港の各都市で行われている音楽フェスのディレクターたちによるディスカッションが行われたほか、沖縄を拠点とするアーティスト9組のショウケースも開催。今後は〈アジアのSXSW(サウス・バイ・サウスウエスト)〉をめざしているという。
那覇の桜坂劇場が主体となったこのイヴェントにおいて、カンファレンスの司会などさまざまな場面で大活躍していたひとりの女性がいる。それが山本佳奈子さんだ。現在は公益財団法人沖縄県文化振興会に勤務する山本さんは、アジアの音楽/カルチャー/アートを紹介するウェブジン「Offshore」を主宰する一方、各メディアでアジアのローカル・シーンの情報を発信。これまでにタイのデスクトップ・エラーやトゥー・ミリオン・サンクス、シンガポールのオブザーヴァトリーといったバンドのジャパン・ツアーや、2015年には韓国のインディー・シーンに迫ったドキュメンタリー映画「パーティー51」の上映とライヴ・ツアーも企画した。
アジアのインディー・シーンの活況を日本に紹介し続ける山本さん。彼女から見たシーンの本当の魅力とはどこにあるのだろうか? これまでの音楽遍歴も含め、じっくりお話を伺った。
自分がやるものに関しては、各地域の民族性を
前提にしなくてもいいんじゃないかと思っていて
――初めての個人旅行は高校3年生のときのジャマイカだったそうですね。高校生の女の子がひとりで行く場所ではないと思いますが(笑)。
「当時からスカやロックステディーみたいな60年代のジャマイカの音楽が好きだったので、ジャマイカに行けばレコードをいっぱい買えるんじゃないかと思って(笑)。その頃ちょうどネットで何でも調べられるようになりつつあって、BBSがメチャ流行ってたんですね。私もそうやってジャマイカに行く方法を知ることができたんです。だから、高校生でも行ける気になったんでしょうね」
――ネットで情報を収集しつつも、やっぱり現地に行ってみないとわからないものがあった?
「いまもそうですけど、基本的にネットは道具としてしか捉えてないんですね。人と会うための手段でしかないというか。きっと自分の目で見たいという欲求が強いんでしょうね。自分の目で実際に見るまで信じないぞという」
――バンドもやってたんですか?
「高校時代に大学生の友達とダンスホール・クラッシャーズのコピー・バンドをやってました。私自身はメロコアを聴いてたんですけど、その大学生の友達がやろうと言い出して」
――83年生まれということは〈AIRJAM〉世代ですもんね。
「そうです。ただ、〈AIRJAM〉の頃はまだ高校生だったので、〈AIRJAM〉そのものには行けてない世代ではありますね」
――その後ライヴハウスで働きはじめるわけですね。
「専門学校時代から音楽の仕事に携わりたいと思っていたので、専門学校の2年生から大阪のマザーホールで働きはじめて、他にも大阪市内のライヴハウスで働いていました。その後はひたすら短期バイトをやって、そこで稼いだお金で海外に行く、その繰り返し。2010年にキューバに行くことになったんですけど、そのときに(ウェブマガジンの)『webDICE』でライターの募集があったんですね。私も書いてみたいと思って、『webDICE』に連絡したら書かせてもらえることになって。ライターを始めたのはそこからです」
――アジアに通うようになったきっかけは?
「2011年にまた海外に行こうとしたんですけど、お金が貯まってなくて、アジアぐらいしか行けなかったんですね。当時はそんなに(アジアに)興味がなかったんですけど、行くんだったら中国だろうと。しかも日本でやってることと同じことをしようと思って、とにかくライヴハウスやギャラリーに行ってみようと考えたんです。上海に入ったのが2011年の3月10日。そのあと香港、バンコク、北京、台湾を3か月かけて回りました」
――では、初めて触れたアジアのローカル・シーンは中国だったわけですか。
「そうですね。最初の上海では何も見つけられなくて、すぐに香港に移りました。レコード屋さんには行きたいと思っていたので、まずは(香港のインディー・レコード店/レーベル)ホワイト・ノイズ・レコーズ※に行ったんです。そこでマネージャーのゲイリー(・イオン)と仲良くなって、そこからあっという間に友達が増えた。香港の人って大阪人っぽいというか、ラテン系のノリでオープンなんですよ。あと、香港はアジアの中華系シーンすべてと繋がっていたので、いろんな情報を入手できた。アジアにもいろんな音楽をやってる人がいるんだということをそこで初めて知ることができたんです」
※「Offshore」に掲載された「【SPACES FILE】WHITE NOISE RECORDS(Hong Kong) への行き方」はこちら
――そのときの取材旅行が大きかったわけですね。
「そうですね。そのときのことは『webDICE』にも書いたんですけど※、各地でいろんな人たちにお世話になったので、彼らのことを継続して紹介していきたいと思ったんですね。しかも向こうの人たちは日本のことをよく知ってるのに、日本人はアジアのことを知らない。それで『Offshore』を始めることにしたんです」
※「webDICE」に掲載された「アジアン・カルチャー探索ぶらり旅【第2回】:大量消費都市・香港でアート・カルチャーを発信する場所」はこちら
――「Offshore」を立ち上げたのはいつ?
「2011年の7月です。やっぱり現地に行かないと『Offshore』の記事も書けないので、それから頻繁にアジアに行くようになりました」
――「Offshore」を立ち上げるきっかけとして、アジアのローカル・シーンに何らかの魅力を感じたという面もあったわけですよね。
「日本もアジアのみんなも同じことをやってるんですよね。考えてることも一緒だし、香港や台湾に初めて行ったときもすぐに話が合ってびっくりしたんです。そういうこと自体が日本ではあまり紹介されないし、『Offshore』で伝えていければと思って。あと、私は音楽の裏方仕事を一度イヤになって辞めてるんですよね。自分のオーガナイズ企画もやりたいことばっかりをやってたから全然客が入らなくて、5年以上ライヴハウスにも行かない期間があった。そういう時期にアサダワタルさんたちがやってた〈CIY:Curate It Yourself!〉というイヴェントを通じて、大阪のクリエイティヴ界隈の人たちと出会う機会があったんです。町づくりアートに参加している方々であるとか、音楽以外の表現に関わってる人たちが持っている柔らかい考え方にとても影響を受けました。そのなかで自分ひとりでもメディアはできるんじゃないかという考えに辿り着いたんです」
――デスクトップ・エラーやトゥー・ミリオン・サンクス、オブザーヴァトリーにしても、山本さんが招聘したバンドにはその国の民族性みたいなものを打ち出したバンドがいないですよね。言ってしまえば、どのバンドもタイっぽくないし、シンガポールっぽくない。
「確かにそうですね」
――90年代の日本ではワールド・ミュージックの延長上でエイジアン・ポップスのブームがありましたけど、そのときのアジアへの視線には〈自分たちとこんなに違うからこそおもしろい〉というエキゾティシズムが多分に含まれていたと思うんです。でも、いまのアジアの都市部で音楽をやってる人たちは僕らと同じような音楽を聴いて育ち、同じような音楽をやっている。僕らはそこがおもしろいと思うわけですけど、90年代的な観点からすると〈同じようなことをやってておもしろくない〉わけで、僕自身、そういう状況に対して苛立ちや葛藤を感じることも多いんです。
「そこは私もめちゃくちゃありますね。デスクトップ・エラーみたいなタイのバンドのツアーをやろうとすると、周りから〈モーラムを絡めようよ〉という声が絶対出てくる。でも、デスクトップ・エラーのメンバーは普段からモーラムを聴いてるわけじゃないし、私たちにとっての演歌みたいな感覚なんですよね。私自身、日本っぽさのカケラもない環境で育ってきたし、音楽も洋楽ばかりを聴いて育ってるわけで、自分の民族性を意識したこともほとんどない。バンコクや台湾、香港の都市部の人たちも同じだと思うんです。できるだけ彼らがやってることをストレートに伝えたいと思っているので、私自身、いろんな葛藤があります。やっぱり日本のなかではいまだにアジアを後進国として見てるところもあるんだろうし、できるだけフラットな状態に持っていきたくて」
――台湾や韓国の音楽好きと話をしていても、すぐに好きなバンドやアーティストの話で仲良くなれますよね。そこがいいなと思っていて。英米の音楽という共通言語があるのは素晴らしいことだと思うんですよ。
「それはありますね。もちろん私もモーラムをまったく聴かないわけじゃないし、(インドネシアの)センヤワなんかを聴くと彼らの民族性というものを意識させられますけど、自分がやるものに関しては各地域の民族性を前提にしなくてもいいんじゃないかと思っていて。ライヴハウス出身の人間として、本当に〈おもしろい〉と思える音楽を紹介していきたいんです」
海外の視点を入れることで、日本の閉塞感に
風穴を空けられるような気がしてるんです
――日本に招聘した最初のアジアのバンドは?
「2013年のデスクトップ・エラーです。香港のゲイリーがバンコクに住んでいるサウンド・デザイナー/エンジニアの清水宏一さん※を紹介してくれて、清水さんからバンコクのインディー・バンドをいろいろ教えてもらったんです。どれも超イケてるポスト・パンクばかりでびっくりしたんですけど、そのなかでもデスクトップ・エラーにハマってしまって。それでまずは一度日本でツアーをやろうということになって」
※「webDICE」に掲載された「『ブンミおじさんの森』の音響を手がけた清水宏一さんに聞くバンコクのアート系映画とインディーズ音楽シーンの現状」はこちら
――デスクトップ・エラーは全部で何公演やったんですか。
「5回です。兵庫のフェスに出た後に京都が1本、そのあと東京で3公演連続でやりました。いま考えると頭おかしいですよね(笑)」
――やってみて、どうでした?
「やっぱり見せないとわからないということはありますよね。デスクトップ・エラーにしてもタイで5日間連続でライヴをやることなんてないし、しかもどの会場でもタイではあり得ないようなちゃんとした機材を使えるわけで、日に日にライヴが良くなっていくんですね。東京の最終公演は〈exPoP!!!!!〉というイヴェントだったんですけど、演奏後にアンコールがあったんですよ。それにはすごく感動しました」
――〈exPoP!!!!!〉に来ていたのはデスクトップ・エラーのお客さんだけじゃなかったはずで、純粋に出てる音がおもしろかったからアンコールがかかったわけですよね。それってとても重要なことだと思うし、アジアの音楽をどうやって紹介していくかを考えるうえでひとつの手応えになりますよね。〈タイのバンドだからおもしろい〉のか、〈おもしろいバンドがたまたまタイだったのか〉という差。
「その感覚はとても重要だと思います。韓国のデザイン雑貨を紹介している日本の方と話したことがあるんですけど、その方がおっしゃっていたのは〈全世界の雑貨とゴチャ混ぜにしても『あ、これいいな』と手に取れるものを紹介していきたい〉ということで、そこは私も同感なんですね。全世界の音楽と並べて聴いたときに〈これ、いいな〉と思えるものがたまたまタイだったり韓国だったり、というのが理想ですね」
――まったく同感です。
「そういう状況があたりまえになれば、〈日本はアジアでNo.1だよね〉という勘違いもなくなって、本当の意味でアジアと対等に話をできるんじゃないかと思ってるんです」
――山本さんの活動の根っこにはアジア諸国と日本の状況の温度差に対する苛立ちみたいなものがある?
「それはありますね。私自身、日本の社会に息苦しさを感じることって本当に多いんですけど、海外の状況を見るともう少し生きやすくなるんじゃないかと思っていて。海外の視点を入れることで、日本の閉塞感に風穴を開けられるような気がしてるんです」
――昨年は韓国のインディー・シーンを追ったドキュメンタリー映画「パーティー51」の上映もされましたね。
「個人でやったので、私はあくまでも上映窓口的な立場ではありますね。あれは(『パーティー51』にも出演しているミュージシャンでレーベル・オーナーの)パク・ダハムが連絡してきたんですよ。〈こういう映画があるんですけど、日本で上映してくれませんか〉って。以前、『Hidden Agenda』という香港のライヴハウスのドキュメンタリー映画を東京と大阪で上映したことがあるんですけど、そのことをパク・ダハムは知ってたみたいなんですね。それで連絡してくれたみたいで……。大変でしたね、本当に」
――何が一番大変でした?
「やっぱり向こうの人たちとの細かい認識の差。どういったものを作っていくかという意思疎通ですね。たぶんね、私がちょっと神経質すぎるんですよ(笑)」
――「パーティー51」はソウルの中心部、ホンデの再開発がインディー・ミュージシャンたちの活動に与えた影響が重要なキーとなっているわけですが、あの作品を初めて観たときはどう思いました?
「〈これはまさしく私がやるべき映画だ〉と思いました。大事なのは、日本のミュージシャンや関係者があの作品を観て自分たちの問題として考えることですよね。どこかで共感できるポイントがあると思うので」
――上映会での反応はいかがでした?
「普通に笑える部分もある映画なので、〈おもしろかった〉という反応が一番多かったですね。あと、地方のミュージシャンのほうが共感できるポイントは多いかもしれない。なんだかんだいって東京はまだまだ恵まれた状況にあるので、より厳しい地方のミュージシャンのほうが共感しやすいんでしょうね」
――山本さんが沖縄に移ったのは去年の4月だったそうですね。どういうきっかけで沖縄に移ることになったんでしょうか。
「公益財団法人沖縄県文化振興会で働くことになったのが直接のきっかけですけど、最初はわりと軽いノリだったんですよ(笑)。ポピュラー音楽を支援してる文化芸術系財団ってあまりないので、これはいい機会だと。文化系の助成金をロックやポップスで取るのはなかなか難しいんですけど、沖縄で先に事例を作ることができれば、全国的にもおもしろいことができるんじゃないかと思っています」
――沖縄に引っ越したことでいままでの活動ができなくなるという不安は?
「ツアーに関して言えば個人でやるのにも限界があるので、2年に1回ぐらいでいいと思っていて。本当に大変なんですよ(笑)。あと、各地のライヴハウスやレコード店の方ともいい関係ができているので、いまではかなりの部分をネットでできるようになってますし、それほど問題はないんじゃないかと。ただ、今後はもう少し各地で取材する機会を増やしていきたいですね。特に香港と台湾。どちらも学生運動以降の動きについてはきちんと取材してみたいと思っています。ネット上の声を拾う限り、学生運動以降みんな強くなった気がするし、慎重にもなった気がしていて。そのあたりの声をちゃんと聞いてみたいと思っています」