それは果たしてジャズ、だったのか。

 ラホールを舞台にした音楽ドキュメンタリーというので、なんとなくポスト・コロニアル風の風景の広がる近代都市をイメージしてしまっていたが、それは迂闊で、大間違いだった。半ばゲットー化し、荒れた街とそこに暮らす人々の質素な生活を写す映像に驚いた。インド・パキスタン分離運動の中心となった街の今を伝える映像は、そこがかつてパキスタンの文化の中心地として栄えたとは想像しがたい荒地、そのものだった。

 ラホールに与えられた「ロリウッド」という呼称が示すように、そこはパキスタンの映画産業の中心だった。いくつもの撮影所があり、映画制作のスタジオがひしめき、撮影されたばかりの映像を伴奏するためにミュージシャンがたくさん集まり、伝統音楽やら新しい音楽などを次々とレコーディングしていた。音楽が絶えることのない街は、かつてパキスタンの人々に夢を供給していた。しかし、この夢のような時間は続かなかった。70年代以降、過激に進んだイスラーム化や、タリバンの出現によって街の様子は一変してしまう。産業は廃れ、音楽は街から消えた。腕を競い合った一流の伝統音楽の巨人たちから、街の急激な変化は音楽を奪ってしまった。

 もう二度と演奏することができないのではないかと、音楽家達の心中に広がっていく不安を払拭し、荒廃の一途を辿るラホールの街をなんとかしたいと立ち上がったのは、地元の実業家だった。彼は私財を投じ音楽スタジオを作り、文化都市ラホールの再生のために立ち上がった。そしてまず最初にやらなければならないと考えのはラホールの音楽家の演奏家魂に火をつけること、「ラホールの音楽家は生きている、ここにいる」ということを世界に向けて発信することだった。

 メッセージとして彼らが選んだのはジャズ、かつて終戦直後の青年期に聴いた自由が満ちた音楽だった。戦後、アメリカは“人種差別の国”というイメージを払拭するための国策としてジャズ・ミュージシャンを文化大使として海外に派遣した。ジャズ・アンバサダーと呼ばれたこの事業によってインド、パキスタン、日本などのあらゆる国にジャズは広まりその世界化が進んだ。彼らも大使として訪れたディジー・ガレスピーサッチモらの演奏にさぞ胸をときめかせただろう。

 かつて彼らに自由という夢を与えたジャズを演奏することで、世界からの共感を得たいという思い、ラホールの音楽家たちの演奏技術の高さを伝えたいという狙いから、彼らが選曲したのは《Take Five》だった。変拍子の達人たちが、自分たちの技能の高さを余裕で示せる格好の曲だし、サックス奏者、ポール・デスモンドが書いたあまりにも有名なジャズ・スタンダードだ。

 タブラ、シタール、バーンスリー(フルート)、それにインドらしい響きのストリング・セクションからなるサッチャル・ジャズ・アンサンブルの演奏を収録した映像が公開されたのは2011年。ラホールの音楽家たちが奏でるエキゾでキュートな《Take Five》の映像は、世界中からの共感を呼び、再生回数はこれまでに100万回を超える。

 本来、このドキュメンタリーはこの《Take Five》の映像の裏側にある事情を見せるためのものであったと思うのだが、この映像の想像を超えた反響は彼らをジャズの本場へ誘い、そしてこのディールをきっかけに、このドキュメントはジャズと自由の裏側を見せる方向にも転び始めたと僕は思った。

 この映像を見たウィントン・マルサリスは、自身が音楽監督を務めるNYのジャズ・アット・リンカーンセンターでのサッチャル・ジャズ・アンサンブルの公演をディールする。当初穏やかに彼らを受け入れたウィントンだが、短期間のリハーサルの間に起こる数々の問題は彼を痺れさせる。彼はおそらく「なんでこんな簡単なジャズが演奏・理解できないのだ」とおもっただろう。

 まあ、なんとか切り抜け、ラホールの演奏家の卓越した演奏により公演は大成功を収めハッピーエンド。しかし映画が終わった瞬間、あれ!? この映画宣伝コピーである「スウィングしなけりゃ“あと”がない!」のは実にウィントン当人だったのではないか。

 ぜひジャズ・ファンなら見て確かめてほしい、これは。

 

映画「ソング・オブ・ラホール」
監督・製作:シャルミーン・ウベード=チナーイアンディ・ショーケン
音楽・出演:サッチャル・ジャズ・アンサンブル/ジャズ・アット・リンカーン・センター・オーケストラ with ウィントン・マルサリス
配給:サンリス/ユーロスペース(2015年 アメリカ 82分)
◎8/13(土)ユーロスペースにて公開 他全国順次
senlis.co.jp/song-of-lahore/