Suchmosがそのキャリアにおいて最初の決定打となるアルバム『THE KIDS』を発表し、ブラック・ミュージックのエッセンスを含んだポップスのさらなるJ-Pop化/オーヴァーグラウンド化が予想される2017年。Nulbarichらがそれに続き、ほかにもバンドからソロ・アーティストに目を移せば、星野源の一人勝ちにストップをかけるべく、SKY-HIやKeishi Tanakaなどが注目を集めているが、ここに新たに名乗りを上げたのが、本稿の主役であるDinoJr.だ。
台湾人の父親のイングリッシュ・ネームを受け継いだ91年生まれのDinoJr.は、弾き語りやバンド形態でのライヴ活動、セッションへの積極的な参加などを経て、昨年自主レーベルからデビュー・アルバム『DINOSENSE』を発表。ネオ・ソウル的なサウンドメイキングに目配せし、ゴスペルの要素も採り入れながら、自身の歌を前面に押し出した明快にポップな作風は、いまの時代にジャストな仕上がりだ。しかも、彼をサポートするのはShingo Suzuki、Kan Sano、田中“Tak”拓也といった多方面で活躍する手練れのプレイヤーたちであり、そのクオリティーも保証済み。2月15日(水)に行われる初の単独公演〈DinoJr. Oneman Live 2017 〜 This is #EXOMUSIC 〜〉を前に、初のインタヴューでDinoJr.の本質に迫った。
ポップスのフィールドで黒い音楽をやりたかった
――まずは、ディノさんの音楽の原体験を教えてください。
「いきなり暗い話になっちゃうんですけど(笑)、僕は小さい頃、いわゆる落ちこぼれタイプで、勉強も運動もできないし、女の子にもモテず、唯一絵を描くことが趣味みたいな感じだったんです。でも、音楽の授業で合唱をしたときに、高い声を先生に褒められて、そのときに〈俺は歌手になるんだ〉という壮大な勘違いが生まれて(笑)。
で、中学校でBUMP OF CHICKENを聴いて、バンドをやりたいと思ったんですけど、高校に上がってもバンドに興味のある友人に出会えず、仕方なく弾き語りを始めたんです。その間にスガシカオさんにハマって、そこからブラック・ミュージックを知り、スティーヴィー・ワンダーから入って、ブライアン・マックナイト、クリス・ブラウンとかを聴くなかで、ディアンジェロとジョン・メイヤーに行き着いて、生音のネオ・ソウルに興味が惹かれていったという感じです」
――〈DinoJr.〉という名前はいつから名乗ってるんですか?
「19歳くらいですね。それまでは本名を英語表記にしていたんですけど、先輩から〈インパクトが薄い〉と言われて、台湾人の父のイングリッシュ・ネームが〈ディノ〉なので、そこから取りました。ただ、その後にダイナソーJr.ってバンドが存在することを知ったんですよ。それもDinoJr.として活動を始めて結構経ってから知ったので、いまさら変えるのもなと思って。今後は検索でダイナソーJr.より上に来るようにがんばりたいです(笑)」
――ディアンジェロとジョン・メイヤーに行き着いたというのは、どんな部分に惹かれたのでしょうか?
「あ、その前にまずマルーン5がすごく大きかったですね。僕はもともとポップスから音楽に入ってるので、ブラック・ミュージックのエッセンスが入ったポップスという意味でマルーン5はすごく聴きやすくて、〈バンドをやるならこういうバンドがやりたい〉と思いました。
“Makes Me Wonder”を聴いて、バンド・サウンドであの色気を出せるのはすごいなと。あれを聴いて、ポップスのフィールドでグルーヴのある黒い音楽をやりたいと思ったので、そこが原点かもしれません」
――ディアンジェロはその後に出会ったわけですか?
「18歳くらいですかね。初めて聴いたのが“I Found My Smile Again”で、それまで聴いてきたR&Bとは質が違ったんですよね。それまではトラックというフォーマットがあって、そこに歌が乗るっていう、基本的に歌メインの音楽をR&Bと捉えてたんですけど、ディアンジェロはトラックも歌も全部一緒というか、すべてが細かく揺れ動いてるあの感じに衝撃を受けて。あと僕はギターも弾くんですけど、ギターのアプローチがいい意味で緩いというか、生々しい、加工されてない感じが耳に残りました」
――ジョン・メイヤーに関しては?
「最初は初期のポップなアルバムを聴いてたんですけど、ピノ・パラディーノとスティーヴ・ジョーダンが参加した3作目(2006年作『Continuum』)が衝撃で、あの削ぎ落とされた、隙間のある感じにどハマりして、そこからはいかに隙間を活かしたポップスができるかをすごく考えるようになりましたね」
転機となったセッション現場への飛び込み
――ディノさんはこれまでバンド/弾き語りと形態を問わず活動してきて、セッションにもよく参加されていたそうですが、アルバムの参加メンバーともセッションで出会っているのでしょうか?
「ほぼ全員、セッションで知り合いました。最初はそれぞれが主催するセッションに顔を出して覚えてもらって、個人的に仲良くさせていただいた方に、〈レコーディングするんですけど、参加してもらえませんか?〉と直接お願いして実現した感じです」
――『DINOSENSE』には自主レーベルからの初作とは思えない、豪華なメンバーが集まりましたよね。
「僕もメンバーが決まってから、〈これ、ホントに大丈夫なのかな?〉って不安になっちゃいました(笑)。まずShingo Suzukiさんに声を掛けさせていただいて、絶対断られると思いつつ、ダメ元でお願いしたら、〈やろう〉とおっしゃってくれて。Shingoさんに参加してもらえるなら、他もしっかり固めなきゃと思い、〈このパートならこの人が最強だろう〉と思う人を集めました」
――Shingoさんとの出会いもセッションですか?
「最初はShingoさんがホスト・メンバーのセッションですね。もともとOvallが好きだったので、〈Shingoさんと演奏できるんだ〉とびっくりしつつ、遊びに行ったんです。最初はホントに緊張したんですけど、Shingoさんはよくセッションに出没するとわかったので、そこからは追っかけみたいな感じで、何度も足を運んでいるうちに覚えてもらえました」
――先ほどは海外アーティストの名前を挙げていただきましたが、国内で言うとやはりOvallの存在は大きいですか?
「大きいですね。Ovallもやっぱり18歳、19歳くらいで聴いて、mabanuaさんのドラムを初めて聴いたときに、〈こんなヨレているビート聴いたことがない。でも、格好良いな〉と思って、そこからJ・ディラとかも聴くようになった感じです」
――Kan Sanoさんの参加は、origami PRODUCTIONS繋がりですか?
「先にドラムの今村慎太郎さんと仲良くさせていただいていて、今村さんがKanさんと一緒にやられていたので、思い切って紹介してもらいました。今村さんとTakさん(田中“Tak”拓也)は一度ライヴをサポートしてもらっていたので、2人には絶対参加してもらおうと思っていて」
――セッション・カルチャーに飛び込んだことが、キャリアの大きな転機になったと言えそうですね。
「最初の頃はライヴハウスで弾き語りをしていたので、わりとロック・バンドの畑にいたんですけど、バンドの人たちは比較的バンド単位で固まるから、セッションはあんまりしないんですよね。
ただ、あるときたまたま対バンした人から、よくセッションに行ってるという話を聞いて、気になって行ってみたら〈世の中にはこんなに上手い人がゴロゴロいるのか〉とびっくりして。そこからバンド・シーンとはちょっと距離を置いて、セッション・プレイヤーの人とよく絡むようになったんです。
でも、最近はまたバンドが恋しくなってきて(笑)。いまのバンド・シーンって、セッションを通ってきた人たちが十分な技量を持ったうえで、改めてバンドを組み直してやってる感じじゃないですか。バンドの勢いもあれば、技術もあるという、一昔前とは違う感じになってると思うんですよね」
――まさに、技術や知識があったうえで、ポップスに向かっている人が多いですよね。
「セッション・プレイヤーは確かに上手なんですけど、どうしてもまず譜面を用意して、3~4時間リハをして、〈こんな感じだね〉みたいになりがちで。でもバンドだったらもっとアレンジを練る時間が作れたり、精神的な結び付きも生まれるじゃないですか。なので、今後は僕も改めてバンド形態でやりたいなと思ってるんです」