ピアノと日常の音から生まれる自画像の中の風景
原摩利彦は「いい空間」「いい時間」を知っているのだろう。現実にそうしたところにいて、そんな過ごし方をした、という意味ではかならずしもない。21世紀現在、あくせくと日々をすごしているのは他の人と変わらなかったとしても、そうした「いい空間」「いい時間」を想像することができ、志向することができるという意味、そして、ピアノの前に座り鍵盤に指をおとす瞬間に、あるいは、パソコンを前にしてサンプリングした音源やつくりあげた音源を確かめているとき、そうした空間と時間を全身で体感することができる、という意味である。
全15曲、どれも短い。最短なものは1分ちょっと。もっとも長くて6分といったところか。ピアノが中心で、すこし音色を変えているものがあったり、あいだに自然音を含んだ電子音がはいるものもあったりする。どれもゆったりした曲調で、「アンビエント」とひと言で括ってしまうことができるのかもしれない。でも、そういうふうに音楽のかたちを勝手に決めてしまったら、その聴き方もそれに沿ったものにしかならない。「アンビエント」としてこの音楽をならしておくなら、きっとヴォリュームもしぼって、となるだろう。パソコンで作業をしながらならしておく、というような。それは、でも、この音楽のいいところを見落として、いや、聴き落してしまうことだ。ここに、上に記した、「いい空間」「いい時間」への誘いが、そうした音楽のひとつの地図があるのだから。
たとえば――このアルバムを聴くための時間を故意につくる。何もしない、とつよく意識する。スマフォの電源をオフにする。まわりにある余計な音をなくして、まずお湯を沸かし、紅茶をいれ、ヴォリュームを比較的大きくして、音楽をかける。音楽をしっかり「聴く」、あるいは「聴こう」とする。1曲ごとのかたちや、ひびきについておもうこともあるだろう。それはそれでいい。いろいろな想念がわくだろう。その想念を、その感覚をたのしめるようになるといい。すると、音楽はそうした心身の状態をつくるための触媒になる。「アンビエント」とおなじように呼べたとしても、いま目の前で何かをしていることの、ではなく、もっとべつの時空へとはいっていける「アンビエント」となるだろう。それはもしかしたら、音楽という人為的な効果・作用によってこそ可能になるひとつの夢なのかもしれない。