苦難の時代に発表された熱情的な静謐、あるいは即興演奏と配置の関係性について
京都を拠点に国内外で活躍する音楽家・原 摩利彦による3年ぶりのソロ・アルバム『PASSION』がリリースされた。ダムタイプへの参加をはじめ舞台芸術やサウンド・インスタレーション、映画音楽など多岐にわたる領域で活動する彼の、音楽家としての作家性が前作より以上に色濃く刻まれた作品である。図らずもコロナ禍でアクチュアルな響きを増したタイトルを掲げた本盤について話を伺う中で見えてきたのは、表現を拡張する上で不可欠な開かれた姿勢と音楽制作における即興の重要性、そして独自の静寂への美学だった。
――今回、なぜ『PASSION』というタイトルにしたのでしょうか?
「〈Passion〉って一般的には〈情熱〉と翻訳しますよね。けれどもキリスト教だと〈受難〉を意味しますし、語源のラテン語〈pati〉まで遡れば〈苦しむ〉〈受け入れる〉〈耐え忍ぶ〉といった意味合いにもなります。ここ数年、僕が取り組んできた仕事を振り返ったとき、どちらかというと外発的で受け身のコラボレーションが多かった。けれども自分の作品は内発的で心の中から湧き出るような能動的なものとして作りたいなと思ったんです。そう考えたときに、〈Passion〉という両義的な意味を持つ言葉がピッタリだなと。タイトルはサウンドが完成した後につけました」
――J.S.バッハやアルヴォ・ペルトをはじめとした〈受難曲〉の歴史に対する意識はありましたか?
「いや、受難曲の歴史に位置づけようとは思いませんでした。それよりも〈自分の表現を拡張する〉ということがコンセプトとしてありました。外を向いて様々なものをオープンに受け入れて、自分の表現を広げていこうと思ったんですね。他者のフィールド・レコーディングを使用したのもそのためなんです。付け加えると〈フィールド・レコーディングは自分で録るものだ〉という暗黙の了解が前提となっている風潮があったので、そこを問い直したいという気持ちもありました」
――今作にはフィールド・レコーディングの他に電子音やピアノ、非西洋楽器など様々な響きが収められていますが、原さんにとってそれらの響きは音という次元で等価なものとして捉えているのでしょうか?
「そうですね。ただし全体の音楽の中では、つねに等価に響くわけではありません。たとえばその四つの音が立体状に並んでいるとして、正面から見たときと斜めから見たときだと別々の部分が前に出てきますよね。ある曲のある部分では笙の音が前にくるけれども、別の部分では笙の音が背景になって電子音が前に来る。そういうある種ポリフォニックなものとして捉えています。そしてそれこそがまさにコンポジション=配置することだと思うんです。配置の関係性で生まれる音響や聴こえ方に僕はとても興味があるんですよね」
――一方で原さんはNHK-FMのラジオ番組で坂本龍一さんと即興セッションを行ったほか、2014年から2015年にかけて『IMPROVISED TAKES』をリリースするなど、インプロヴィゼーションにも積極的に取り組んでいらっしゃいますよね。
「2010年代半ばは特に重点的に即興演奏に取り組んでいましたね。発表していない演奏もたくさんあるんです。ただ、もともと中学高校の頃から即興演奏には親しんでいました。僕は楽譜通りにピアノを上手く弾くことが苦手でしたし、作曲をしているときにも、鍵盤の上でただ手が遊んでいるだけというか、そういう即興的な仕草から新しいフレーズを見つけるという作曲方法をずっとやっていました。大学に入ってからも、作曲するときに頭で考えて書くのではなく、手から出てくるものを捉えるために、録音を回したまま即興演奏し続けるということもやっていました」
――作曲手法の一つとして即興演奏に取り組んできたと。
「いわゆる即興演奏家として活動してきたわけではないですね。ただよく〈即興では自分の持っているものしか出ない〉と言われますけど、即興演奏のパートを組み込んだ自作曲をコンサートで演奏すると、やっぱり毎回違うものが出てくるんです。お客さんの前だと緊張感もありますし、普段は弾かないフレーズやコード進行が出てくるので、そこら辺はこれからも追求していきたいなとは思っています」