アクセル・トスカ、アマウリ・アコスタに聞くニューヨーク、ラテン音楽シーンのミックス・カルチャー
「アクセルとは2007年に初めて会った。俺たちはアフロ・キューバンをルーツにしたグループを作りたかったんだ。アフロ・キューバンはとても多様性のある音楽で、50年代までは盛んだった。でも革命後、ある意味、停滞してしまった。俺たちはアフロ・キューバンの新しい波を作りたかった。アクセルとか俺みたいな新しいキューバ人音楽家たちがニューヨークから出てきたいまこそ、新しいサウンドをクリエイトするときだと思ったんだ」(アマウリ・アコスタ)
5月半ばにコットン・クラブで初の来日公演を行い、強烈なインパクトを残した(ユ)ニティ(もともとの表記が(U)NITYなので日本語ではこのように書かせていただく)。映画『Cu-Bop キューバップ』にも登場したキューバ人ピアニスト、アクセル・トスカと、ニューヨーク生まれのキューバ系米国人ドラマー、アマウリ・アコスタというふたりが中心となったグループだ。アマウリによると、もともとは5人組だった(ユ)ニティだが、6年前に“バンド”であることをやめ、“コレクティヴ(collective/共同体)”になったのだという。
「ニューヨークではみんな忙しいから、レギュラー・バンドを維持するのは大変なんだ。なので、どうやって維持すべきか、さらに、新たな共演者をどうやって加えるかを考えた。彼らが入ることで音楽が良い方向に変わる。そして、拡大し続ける俺たちのムーヴメントを助けてくれるんだ」とのことで、アルバム『(U)NITY IS POWER』でも、ふたりを中心としてさまざまな音楽家たちが参加、まさに共同体的な内容となっている。今回は、ギター、サックス、ベース、そして曲によって歌手を加えた計6人による公演だった。基本的にはラテン・ジャズなのだが、出てくる音は、ロック、R&B、ファンクなどさまざまな要素がミックスされた実に刺激的なサウンドである。
「俺たちがやっていることのルーツはキューバ音楽だ。でも、ハッキリそうとわかるものを作りたかった訳じゃない。いわばサブリミナルさ。俺たちがキューバのリズムやカルチャーを使うやり方は、隠されたメッセージなんだよ。聞いてる人は自動的にそれがキューバ音楽だと感じる。だけど、明確にそうだとわかる必要はない。メタファーなんだ。演奏にはフェンダー・ローズもバタも使うしシンセも使う。イレギュラーなものをレギュラーなものにする。俺たちの音楽は、通常は一緒にならないものを一緒にして、うまく働かせるんだ」
アクセル・トスカは1985年、キューバのハバナで、シンガーソングライターのアルベルト・トスカを父に、シンガーのシオマラ・ラウガーを母に生まれた。幼いころからピアノを学び、10代半ばからさまざまな楽団に参加したのち、2000年代前半(?)に米国に移住。一方、アマウリ・アコスタは87年、ニューヨーク生まれのキューバ系。幼いころから、おじのダビド・オケンドのソンの楽団でボンゴを叩いていたが、10代半ばにドラムスを始めジャズを志すようになる。ふたりを結びつけたのは、同じくキューバ人で、現在、ニューヨークを拠点に大活躍するパーカッション奏者/歌手のペドリート・マルティネスだった。
「知らない街に移民して、だれも知り合いがいないっていうのはキツい。自分の才能のあるなしにかかわらず、音楽界に導いてくれる知人がいないと、どうしていいかわからないんだ」と、弱音を吐いていたアクセルだったが、彼の母、シオマラ・ラウガーのバンドでプレイするペドリートを介して出会ったふたりは一気に意気投合。当時、ジョージ・クリントンのPファンクのツアーに参加していたアクセルは、アマウリの誘いで、一緒に(ユ)ニティを結成することになった。自身、キューバ音楽とファンクをずっと演奏してきたというアマウリと、キューバから出てきたばかりでPファンクに入っていたアクセル。音楽の趣味やいろんな好みとかがすごく似ていたのだという。
そんなふたりに好きなアルバムやアーティストを挙げてもらったところ、アマウリからは、キューバのピアニスト、エミリアノ・サルバドルの『ヌエバ・ビシオン』、ソフトマシーンの『バンドルズ』、さらに、ジミ・ヘンドリックス、レッド・ツェッペリン、ブラック・サバス、ブライアン・イーノといった名前が。一方アクセルからは、キューバの歴史的ピアニスト、ぺルチンをはじめ、NGラ・バンダ、そして、ジョージ・クリントン、ルイ・ベガといった名前が飛び出してきた。そういえば、ライヴではアラン・ホールズワース(ソフト・マシーンに在籍)のカヴァーも取り上げていたっけ。
さて、現在われわれがサルサやラテン・ジャズとして親しんでいる音楽の基礎となるものは、おおむね1940~50年代のニューヨークで形作られたといえる。もちろん、その源流にはキューバやプエルトリコがあり、それはさらにアフリカ大陸にまで遡る。長い年月をかけて世界のエンタテインメントの中心地へとたどり着いたさまざまな音楽たちは、ニューヨークによって新たな生命を吹き込まれたのだ。
40年代、ニューヨークではビバップ革命が起こり、ジャズとアフロ・キューバンの共演が盛んに行われていた。牽引していたのは、マチートとマリオ・バウサというふたりのキューバ人が40年に結成したアフロ・キューバンズ。この楽団でチャーリー・パーカーが演奏したことは良く知られているが、ほかに、スタン・ケントン、デューク・エリントン、ルイ・ジョーダンといったジャズの一流楽団もアフロ・キューバンを取り入れ、ディジー・ガレスピーはキューバ出身のパーカッション奏者チャノ・ポソを自己の楽団に迎え入れて《マンテカ》などのヒットを生み出した。
50年代になり、マンボの黄金時代を迎えると、マチートのアフロ・キューバンズに加えて、ティト・プエンテ楽団、ティト・ロドリゲス楽団など多くの楽団が登場。マンハッタンのミッドタウンにあったナイトクラブ「パレイディアム」を中心として、大ブームを巻き起こしたのである。
そんな時代に花ひらいたニューヨークのラテン音楽だったが、その後、キューバ革命が引きがねとなった米国~キューバの関係の変化や米国社会の激動などを経験。60年代半ばには、アフロ・キューバンとR&B、ロックなどをフュージョンしたブーガルーが誕生することになる。ある種の時代のアダ花のようにいわれることも多いブーガルーだが、実は、ここにおいて初めて、ラテン音楽は真のニューヨークの音となったともいえるだろう。それまでの“移民たちによる音楽”から一歩進んで、“ニューヨーク地元民による地元民のための音楽”が確立されたのである。そして70年ごろに、“ニューヨークの新しいラテン音楽”として成立したのがサルサだったわけだが、これまで見てきたように、キューバ音楽やプエルトリコ音楽の単なる焼き直しではなく、ブーガルーを経由したニューヨーク地元民たちが改めてアフロ・キューバンを取りあげた……というところに意味があったのだ。
こう考えると、(ユ)ニティが、ロックやR&Bを隠れ蓑(?)にしてアフロ・キューバンをやっていることも、まったく不自然ではない。それはまさに、ニューヨークならではのスタイルなのだということが納得できるはずだ。
キューバ系としてニューヨークに生まれ育ったアマウリはこんな風に語っている。
「俺の夢は、俺の中にある文化を混ぜることだった。なぜなら、いつもよそ者だと感じてたから。ニューヨークにいてもキューバ人だし、両方の文化を代表していると感じてる。とてもキューバ人だと感じることもあるし、アメリカ人だと感じることもある。どうすれば両方の土地で生きていけるのか?ということに感心がある。キューバ人であり、アメリカ人。両方を強調した音楽をやりたいんだ。いままで誰もやったことがないようなやり方で……」
ところで、(ユ)ニティの「()」は何をあらわしているのだろうか?
「ニューヨークとハバナ。俺たちのシンボルだよ。ニューヨークとハバナの間に橋を架けたいんだ。アクセルはハバナ出身で、俺はニューヨークの出身だろ。どうやったらそこに橋を架けられるかをいつも考えている」
(U)nity(ユニティ)
キューバのピアニスト、アクセル・トスカと在米キューバ人ドラマー、アマウリ・アコスタの2人によって結成。現代的なリズムでジャズ/フュージョンの未来を担う強力グループ。ジョー・ザヴィヌル以降最大のキーボード/ピアノ奏者とも言われるアクセル・トスカは音楽ドキュメンタリー映画『Cu-Bop across the border』のメイン・アーティストとして起用された。
寄稿者プロフィール
岡本郁生(Ikuo Okamoto)
1958年生まれ。'70年代に半ば、サルサに衝撃を受け、以来ラテン音楽を心の拠りどころに日々の生活を送る。番組 制作者としてさまざまな音楽番組を手がけるほか、雑誌連載、CD解説、イヴェント主催など活動中。〈eLPop〉メンバー。
FILM INFORMATION
「Cu-Bop across the border」
監督:高橋慎一
脚本:高橋慎一/伊賀倉健二
出演:セサル・ロペス/アクセル・トスカ/アマウリ・アコスタ/ルケス・カーティス/エミリオ・マルティニ
配給:ぴあ(2018年 日本・キューバ 98分)
◎シネマート心斎橋で6/30(土)~レイト上映。上映後に監督とゲストによるトークの予定
cu-bop.tumblr.com/
www.cinemart.co.jp/theater/shinsaibashi/
◎クラウドでの映画上映サイト、アップリンククラウドにて、7月24日まで期間限定の配信上映中。
vimeo.com/ondemand/uplinkcloud124