ピアノをフィーチャーした流麗なジャジー・ヒップホップ/クラブ・ジャズの旗手としてアジアを股にかけて人気を集めるDJ/プロデューサー、Kenichiro Nishihara(西原健一郎)。彼が6作目となるアルバム『Elastic Afterwords』をリリースした。
そのキャリアは高校生の頃、ひょんなことからアパレル・ブランドのショーで音楽制作をした早熟な経験からスタート。それをきっかけにファッション界隈のほかCMやウェブサイトなどの音楽制作やプロデュース仕事で腕を振るいながら、次第に自身の作品制作をするように。そして2008年に7インチ・シングルでリリースしたテノーリオ・ジュニオール“Nebulosa”のカヴァーが話題となり、同年末にKenichiro Nishihara名義で同曲を収録したファースト・アルバム『Humming Jazz』を発表している。
以降はそうしたソロ作品群のほか、ESNOやFolkloveといったサイド・プロジェクト、DJ・選曲家としての作業に加えて他アーティストのプロデュース・ワーク、レーベル/プロダクション〈unprivate acoustics〉〈Jazcrafts〉の運営など多岐に渡る活動で、自身のサウンドを追求。デビュー10周年を迎えた昨年には、2枚組のベスト・ミックス+リミックス集『Kaleidoscope Suite -Best Mix and Remixes-』をリリースした。
今回Mikikiでは、〈次の10年〉へスタートを切ったばかりの西原へ単独インタビューを実施。約2年ぶりの新作と、昨年から今年にかけて行なっている中国ツアーのフレッシュな話を取っ掛かりに、ノンストップで走り続けてきた10年で起こった変化に迫ってみた。
★取材協力:NOHGA HOTEL(ノーガホテル)
Kenichiro Nishihara Elastic Afterwords Jazcrafts/UNPRIVATE(2019)
アジアでの活動、中国ツアーを通して見えたもの
――アジアでのライヴは近年継続してやられていて、昨年から今年にかけては二度、中国でツアーを実施されています。ここ最近の感触の変化は感じたりしますか?
「中国の北京と上海でツアーをやるのは今回で4回目なんですけど、行くたびに動員数や会場などがどんどん大きな規模になっているので、そういう手応えは感じますね。
中国のクラブにはVIPチケットというのがあって、VIPチケットにはサインや握手、ライヴの写真を撮れる特典がついているんです。北京や上海ではこれが300枚くらいは売れているので、それぐらいは確実に目当てにしてくれている人がいるんだな、というのもありますね。でも、そのように向こうでは一日何百枚とサインを書くのでちょっとしたアイドルみたいな感じで(笑)、勘違いしないように注意してます」
――(笑)。中国の西原さんのファンは、ほかにどういった音楽を聴かれているんでしょう?
「それが、よくわからないんですよ。僕と同じようなジャンルで向こうでよくやってるのがDJ OKAWARIやre:plusたちなんですけど、どうもそれぞれのお客さんの層は違うらしくて。日本だとそのあたりのリスナー層って大体カブってると思うんですけど。なので、ジャジー・ヒップホップとか一個のジャンルとして捉えられてるというよりは、アーティスト単体で聴かれているのかなと。
ちなみに、僕のお客さんは日本だと年齢層がけっこう高いんですけど、向こうでは高校生から30代くらいと圧倒的に若い人が多くて、そこも違いがありますね」
――ツアーには新作に参加しているミュージシャンなど、縁ある面々もたびたびゲスト出演されていますね。
「はい。新作に参加してくれたMichael KanekoやSIRUP、それからmabanuaも。彼らはすでに日本では人気がありますけど、まだ中国では知られていないので、そういう日本のいいミュージシャンを呼んで紹介したいという気持ちもあって」
――昨年は88ライジングの躍進などもあって、日本の音楽シーンでもアジアのアーティスト自体や、アジアのアーティストが国際的な活動をすることが最近の大きなトピックとされていますが、西原さんはそうしたトレンド以前からアジアを視野に入れた活動をされてきました。ちょっと前になりますが2PMのウヨンさんがファンを公言していたり、それこそ88ライジングのプレイリストにはNujabesらと共に西原さんの楽曲が入っていたりと、日本以外のアジアのアーティスト側からの支持も厚いですよね。
「ウヨンさんは2010年代の初頭の頃だと思いますけど、雑誌のインタヴューで〈尊敬する人は?〉という質問の答えに何を思ったか僕を挙げてくれて、当時日本のファンの間で〈誰だ?!〉となって(笑)。彼とはあまり深く交流はできなかったんですけど、東京ドームでのコンサートを観に行ったりしたなあ(笑)。僕にとってアジアでの活動のターニング・ポイントになったのは2015年の台湾公演だったんですが、その前にまず韓国で人気に火がついていて※、それが中国へ飛び火したような感覚でした。
※セカンド・アルバム『LIFE』(2010年)が当時、韓国の配信サイトのJ-Popチャートで首位を獲得した
これは今回の新作の話にも繋がってくるんですけど――ファースト『Humming Jazz』(2008年)を出したときから歌詞は英語でやろうと思っていて。というのは、こういったジャンルの音楽は国に関係なく聴かれやすいものだと思うので、パイが大きいほうがいいんじゃないかと。いわゆるみんなが聴くようなポップスではないですし。なので、最初はそういった努力をしていたわけではなかったんですけど、意識として〈国境を越えていきたい〉というのはずっと強くて。で、それはアジア・ツアーをやるようになって、やっと実現していったような気持ちがあります。ひょっとしたらここまでの10年と考えたときに、やりたかったことがようやく出来てきた始まりになったのかもしれないです。
でもその反動もあってか、今回、(新作で)初めて日本語詞を入れたいと思ったんですよ。継続して中国でツアーをやってきて、こういう音楽は日本人ならではの文化なんじゃないか、とも少し感じてきたんです。だったら自分がいちばん親しみのある言葉で曲を作ってみたいなと。ずっと抵抗があったんですけど、いまだったら日本語でおもしろい挑戦ができるんじゃないかなと、10年目にしてようやく思えたんです」
ルーティーンに飽きていた
――新作『Elastic Afterwords』のゲストはどのように決めていったのでしょう?
「いちばん大きいのはいまお話した理由で、これまでは海外のアーティストが多かったんですけど、今回は日本人のアーティストをたくさんフィーチャーしたいなと。MADE IN HEPBURNとか日本勢は初めてな人が多いんですけど、海外勢はほとんどがお馴染みの人ですね。Michael Kanekoは一緒にツアーをやっていたので、絶対やりたいなと思っていて、SIRUPは別のとあるプロジェクトを一緒にやっていたご縁で。MADE IN HEPBURNは福岡のフェスに出た際にライヴを観てファンになったんです」
――MADE IN HEPBERNは恥ずかしながら今回初めて知ったんですが、すごくいいバンドですね。
「彼ら、これから来るかもしれないです……実は僕、先見の明があって(笑)」
――DAOKOさんとか。
「そうなんですよ(笑)。彼女が客演をやったのは僕のサイド・プロジェクト、ESNOの“夕暮れパラレリズム”が最初だったと思います。
あとmabanuaも、ドラムなしの歌だけで彼をフィーチャリングしたのは、僕が初めてなんじゃないかなと思ってて。いまや彼は歌の人としても相当なレベルにいっているので、〈やっぱり!〉って。……なんて、彼がすごく才能があるのはみんな以前から知っているので、冗談ですけど(笑)」
――日本語詞で、日本のアーティストをフィーチャリングする、という以外にアルバム全体のテーマはありましたか?
「今回はメジャーのアーティストみたいにリリース・ツアーが先に決まっていて、それに合わせて曲を作るというのが新しい試みではありましたね。この名義では6作目なんですけど、ESNOとかも合わせるとこれまでにソロ名義では10何枚出してきて、流石に飽きていたというのはあって(笑)。制作がルーティーン化していたのが、非常に良くないなと思っていたんです。だから今回は限りある時間内に、日本人と一緒にやるということもそうなんですけど、これまで想像しえなかったこと――アクシデントをわざと呼び込むような作り方をして。自分を興奮させるというか、フレッシュな気持ちにさせるようにしました」
――なるほど。
「そのいちばん象徴的なものが、アルバムのジャケットなんです。本当は今回もどこかから写真を借りてこようともしていたんですけど、なんかそれもルーティーンっぽい気がしてきて。それで、iPhoneでたまに間違って撮ってしまった写真ってあるじゃないですか? それを使ったんです。自分がまったく意図してないときに撮られてしまった写真。そういう、音楽ビジネスみたいなもののルーティーンから外れよう外れようとして作っていった感じですね。
でも、ひとつジンクスがあって。自分がやり切ったと思うアルバムほど反応が微妙なのに対して、まだイケたんじゃないかと、余白が残ったものほど受け入れてもらえることのほうが多い気がするんです(笑)。今回はそれ狙いかもしれないです」
――ファースト『Humming Jazz』の際のインタビューでも、〈余白を残す〉ことについてお話されていました。
「あ、それ言ってましたね。忘れてました。いまのこの時代に、パソコンを使ってどこまでも追求していく細かいプロダクションは可能だと思うんですけど、何かそこに稚拙さというか未完成さというかが残っていることで、人が聴いたときにスッと入り込める〈隙〉ができるんじゃないかと思うんですよね。
例えばあまりにも完璧な高級レストランに行ったとき、どうもしっくりこない不自由さを感じるときというか。音楽にもそういうのがひょっとしたらあるんじゃないかと、たぶん当時から考えていて。これは自分に物凄く関係のある音楽なんじゃないかって思うのは、そういう〈隙〉のあるものなんじゃないかなと。で、そういうものを作りたいと当時から思っていたかもしれないです」
〈合気道〉的な制作方法
――作詞は各シンガーが担当されていますが、どういったオーダーをするのでしょう?
「歌詞に関しては、もうお任せですね。お渡ししたトラックからインスパイアされたものを、自由にやってくださいと。自分の想像力の範囲で出来るものよりも、他人の想像力が加わったときにどう変化していくのか、というのを楽しんでいます。その意味では歌メロの多くの部分もシンガーに任せているところが大きいですし、歌が乗ってみるまでどんなものが出来るかわからないという、いわゆるコラボ的な作り方をしていますね」
――あまり細かく口出ししたりはしないんですね。
「たまにチェックを入れることはあって、例えば〈F○CK〉とかいうワードが入ってたら、それはちょっと自分の音楽には合わないかもしれないなって(笑)。いまやみんな僕のやっている音楽のイメージをなんとなくわかっているというか、統一されている気はしますね。
あと、僕の作り方がちょっと合気道的なところがあって。特にラップはそうなんですけど、向こうからあがってきたものを聴いて、(ラップ以外の)トラックをすべて変えちゃうこともあるんです。そこからさらに打ち返されたものに合わせて変えていくような作り方はよくします。
でも、Michael Kanekoとの曲では、一度歌を全部作り直したりもしました。〈合気道だ〉と言いながら例外がありました(笑)。これは本人から聞いたんですが、トラックを聴きながら歌を乗せるとうまくいかなかったそうで、自分のギターで弾き語りをして、歌を作っていったそうです。そのほうが感情が入りやすいと言っていて、そうして試行錯誤して仕上げてくれましたね」
――今作のタイミングで、プライベート・スタジオもアップデートしたそうですね。
「Pro Toolsとか、PC全盛な環境がいまスタンダードになっていますけど、そこにも疑問を感じていて。メールをやってるのか、音楽を作ってるのかわからないような感じがちょっとイヤだな、脱・PCをしたいなと。
それでその……普通は個人で所有しないような高い機材をたくさん買い込んで(笑)。アナログ機材でミックスするようにしたんですけど、すごく良いんです。音決めも早いですし、プロセスもすごく楽しいので、それもひとつ〈アクシデント〉として楽しめました。あとはアナログ機材はリコールができない。PCだったらいくらでも前に戻れたりしますけど、アナログはその場の音なので、そういうのはすごくこのアルバムらしいところだと思います」
――それは10年前と大きく変化した部分ですよね。
「そうですね。いまはパソコンをMTRみたいに使っているんですけど、そこだけ除けば逆に70年代にもできたことをやっているっていうのも気持ちよくて。ヴォーカルのエディットとかそういうのは無理だと思うんですけど、機材自体は70年代のものを使ってるのがおもしろいのかなって」
自分のことにしか興味がないっていうのを素直に受け入れる
――10周年イヤーにはまとめのような意味合いも兼ねたベスト集を出されていて。今作はこの先を見据えたもの、という気持ちでしょうか?
「そうですね、〈さあ次〉という気持ちかもしれないです。ただ、もともと自分もアルバム単位で音楽を聴いてきたので、アルバムというフォーマットがすごく好きなんですけど、ストリーミング・サービスとか音楽シーンの動きを見てると、今後アルバムとして作品を作り続けることができるかわからないなと思うところはやっぱりあって。アルバムとして作るのはひょっとしてこれが最後なんじゃないかなってのは4作目を作っていたときくらいから思ってますね。なのでそういう意味でも後悔なくアルバムを作りたいなとは思っていました。
あとは10周年でちょうど40代になったんです。まだまあまあ若くはあるんですけど、どんどん真新しい音楽のジャンルとか、真新しいテクニックに興味がなくなってきていて。いまはどちらかというといままで好きでやってきたことや、やりたかったことをもっと深めたいという気持ちが強くなってきているかもしれないです。いま、打ち込みがうまい若い人ってたくさんいますけど、これ以上打ち込みをうまくなりたいとは思ってなくて、すごいシンプルなプロダクションのスタイルをどこまで追求できるか?みたいなことを考えていますね。アナログ機材とか不自由なもので制作することに興味が出てきたのも、歳のせいかもしれないです」
――いまおっしゃった打ち込みがうまい人や、若手で気になっているアーティストでいうと?
「(しばし考える)それ、いつもパッと出てこないんですよね(苦笑)。これ言い訳なんですけど、Spotify、Apple Music時代にあって、アーティスト名とか曲名を覚えられなくて。サンクラとかでもいいと思うのはいっぱいあるんですけど、ちゃんと名前を憶えてファンになる感覚ってのは、最近あまりないかもしれない」
スタッフ「事務所でかけてて反応していたので言うと、韓国のDEANとか、ホンネですかね」
「あー! でも、ホンネは打ち込みテクニック的にはオールドスクールですよね。打ち込みで言うと、トラップみたいなすごく細かい打ち込みはやっぱりうまいなあと思います。
僕のレーベルからソロ・アルバムを出している水曜日のカンパネラのケンモチ(ヒデフミ)さんとは年も近くて、テクニック的にも同時代で一緒に磨いてきた気持ちがあるんですけど、彼はいまでも新しいテクニックを分析して、自分のものにして、新しい音楽に挑戦してるなあと、いつもすごいなと思っています。僕はもう新しい音楽の分析はあまりしたくなくなっちゃった(笑)」
――例えば10年前はそういう挑戦心が強かったですか?
「そうですね。なんでも作れるようになりたいって思っていました。逆にいまはちょっと下手なほうがいいかも、と。それも〈隙間〉の話かもしれないです。下手になりたい……とは思ってないか(笑)」
――(笑)。
「例えるにはジャイアントすぎるんですけど、(ジョン・)コルトレーンって決してサックス奏者として技術的に上手い演奏家ではなくて。でも、サックスで〈神〉と言ったら彼だったりするじゃないですか。そういう感覚ですかね。これからの時間はテクニックというより、自分の音を探していきたいなって思っています。それが〈上手くなる〉ってこととは対極にあるのかもしれない。なんてね、来年はトラップを作ってるかもしれないです。その頃にはトラップもすでに古いですかね(笑)」
――では来年と言わず今年中で(笑)。最後に、ここから先の10年の展望を教えてください。
「これまでほとんど音楽だけをやって生きてきて。できれば死ぬまで音楽をやっていきたいと、それは10年に関わらずすごく強く思っていますね。
話は変わっちゃうんですけど、〈一生もの〉ってあるじゃないですか。例えば一生ものの楽器をいつか買おうと思っていても、60歳とかで買ってもあまり長い時間鳴らすことができずに死ぬこともあり得るわけで。だから、一生もので欲しいものはなるべく早く、いま手に入れたいというか。いま持ってる自分の音楽的な感覚がキープできるのも、長くてあと10年かなとなんとなく思っていて。それが今回機材を買い揃えたきっかけにもなりましたし、一生ものみたいな仕事をいま始めたいなと。これからの10年はそういう時間を過ごして、今後に備えたい気持ちはありますね」
――そうなんですね。
「でも、僕は結局のところ他人の音楽にあまり興味がないのかもしれなくて(笑)。音楽を聴くのはすごく好きなんですけど、ライヴに行ったりとか、よっぽど好きじゃないとできないところがあって。でも思えば、それではいけないと思って若い頃からがんばってきたんですけど(笑)、この先の10年くらいは、自分のことにしか興味がないっていうのを素直に受け入れて、自分のことをやりたいって気持ちが強くなってきたのかもしれないです。
仕事をいただければやりたいし、企画もののリリースもあればやりたいと思うんですけど、いまは自社で、いちアーティスト・いちレーベル・いち株式会社、みたいな感じで自分のことをしっかりやりたい。それを今後の10年はできるかなって。……でも矛盾するんですよね、じゃあここで選曲してる※のはなんなんだろう(笑)」
※取材は西原がロビーギャラリーの選曲を担当するNOHGA HOTELで行なった
――他人の音楽に興味がないと言われつつ、レコードもいっぱい買ってらっしゃるでしょうに(笑)。
「まあ、思ってることとやってることが違う、基本的に矛盾してる人間なんでしょうね(笑)」
Information
NOHGA HOTEL ノーガホテル
Kenichiro Nishiharaがロビーギャラリーの選曲を担当、2018年11月にオープンした〈地域との深いつながりから生まれる素敵な出会い〉を創出するホテル。
東京都台東区東上野2丁目21-10
https://nohgahotel.com/ueno/