「ダラス・バイヤーズクラブ」の音楽手掛けた才媛。アレクサンドラ・ストレリスキ(Alexandra Stréliski)のピアノは人生のよう
アレクサンドラ・ストレリスキ『Inscape』
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- 2019.05.31

カナダ出身のピアニスト/作曲家、アレクサンドラ・ストレリスキ。ポスト・クラシカル・シーンでは数少ない女性アーティストであり、映画「ダラス・バイヤーズクラブ」(2013年)の劇伴を手掛けたことでその名を広く知らしめた。そんな彼女が本人名義のオリジナル・アルバムとしては、約9年ぶりとなる2作目『Inscape』を完成。オーウェン・パレットらの諸作をリリースしてきたカナダの名門、シークレット・シティからのリリースとなる同作でも、素朴で手触り感を残した鍵盤のタッチと、流れるようにドラマチックなメロディーは健在だ。イノセンスと荘厳さが共存している鍵盤の調べは、聴き手にさまざまな感情を喚起してくれる。ストレリスキは『Inscape』にどんな風景を投影したのか。音楽ライターの原典子が考察した。 *Mikiki編集部
現代人が求める、ピアノの音だけに身をゆだねるひととき
ピアノほど振り幅の大きい楽器もそうないだろう。クラシック、ジャズ、ポップス……あらゆるジャンルにおいてピアノは多彩な音色を繰り出すが、近年はポスト・クラシカルのフィールドでも大きな役割を果たしている。なかでもピアノ一台でみずからの音楽世界を表現するコンポーザー/ピアニストのアルバムが海外を中心に好セールスを記録し、ストリーミングでも驚異的な再生回数を誇っていることは注目に値する現象だ。ヴォーカルもビートもない、静謐なピアノの音だけに身をゆだねるひとときは、情報過多な社会に生きる現代人にとっては瞑想(メディテーション)と言えるのかもしれない。
ユップ・ベヴィン、ジュリアン・マルシャル、リオピーなどソロ・ピアノ作品を発表しているアーティストは多くいるが、ピアニストとしての彼らの出自はさまざま。クラシックを学んだ人もいれば、独学で習得した人、ジャズ・バンドで弾いていた人もいる。本稿でご紹介するアレクサンドラ・ストレリスキはクラシックの専門教育を受けた人であるらしい。フレーズの歌わせ方や、映像で見る弾き姿がそのことを物語っている。
フランスのパリとカナダのモントリオール(仏語圏であるケベック州最大の都市)で育ったストレリスキは、2010年にファースト・アルバム『Pianoscope』を自主レーベルよりリリース。その後、同じモントリオール出身の映画監督、ジャン=マルク・ヴァレと出会い、映画「ダラス・バイヤーズクラブ」「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」(2015年)などの音楽制作を担当して世に知られることとなった。そしてカナダのレーベル、シークレット・シティと契約、この度リリースされたのがセカンド・アルバム『Inacape』である。

ALEXANDRA STRÉLISKI Inscape Secret City(2019)
人間の内面の旅を描くアルバム『Inscape』
〈Inscape〉という言葉は〈Interior〉 と〈Landscape〉を合わせた造語だという。自身の内側に広がる風景、といった意味だろうか。そのイメージはアルバム冒頭に収められた“Plus tôt”のミュージック・ビデオを観るとより鮮明になる。〈あなたは宇宙の一部ですか? それとも宇宙はあなたの一部ですか?〉という問いかけとともに、顕微鏡を覗き込む女性の映像が流れる。人体という宇宙で精子と卵子が出会い子どもが生まれ、地球上の動植物とともに自然の一部として成長していく。『Inscape』はその人間の内面の旅を描くアルバムであり、子ども時代が旅のはじまりというわけだ。くぐもったピアノの音色が、色褪せた8ミリフィルムの映像とともに遠き日の記憶を呼び覚ます。
アルバム全篇を通して印象的なのが、このピアノの音色と響きである。クラシックの世界では、大きなコンサートホールでいかに響かせるか、遠くまで音を飛ばすことができるかが重視されるが、ここに聴く響きはその真逆。素朴な温かみを持つ、柔かで丸みのある音色は、インティメイトな空間で、誰かのためにではなく自分のために弾くピアノにほかならない。
2曲目の“The Quiet Voice”では、少女が口ずさむ歌のように、付点のリズムでメロディーを奏でていく。ストレリスキは理論よりも直感に従って曲を書くタイプだと語っているが、この曲には心に浮かんだメロディーをそのまま指先で紡いでいるかのごとき純粋さがある。続く“Par la fenêtre de Théo”ではより躍動感が増し、生気を帯びた少女の足取りはスキップから小走りになる。
やがて消えゆくピアノの音は人間の一生のよう
“Ellipse”では一転、リズムは消失し、和音の残響が幾重にも折り重なって夢幻的な空間を作り出す。ピアノという楽器の特徴は、減衰する響きにある。ひとたび鍵盤から生まれ出た音は、美しいハーモニーを奏で、徐々に小さくなりやがて完全に消えていくしかない。それはまるで人間の一生のようでもある。
メランコリックな空気を纏ったまま、次の“Changing Winds”では左手が刻む3連符の上で、右手がモノローグともいうべき優しいメロディーを奏でる。後半、右手が左手の倍の速さで3連符を重ね、感情の波が高ぶってきたところで、残響の彼方に消えていく。そして電子的に増幅された長い響きから、アルバムの中締めとなる“Interlude”へ。
後半最初の“Blind Visionは”、ミステリアスな薄闇の中にほのかな灯りが見える曲。目を瞑り、自身の内なる声に耳を傾ける。続く“Burnout Fugue”では速いパッセージに駆り立てられる。ストレリスキはかつて広告関係の会社で働いていたことがあり、目覚ましい成果を挙げたものの、精神をすり減らす日々に限界を感じて自分自身のための音楽を作るようになったという。〈Burnout=燃え尽きる〉という言葉は、そんな彼女の体験がもとになっているのだろう。
記憶を辿り自身の感情をめぐる旅を終え、次の場所へ
“Overturn”では中盤に登場する、ひらりと裏返る木の葉のごとき右手の装飾音符が印象的。次の“Revient le jour”もそうだが、ストレリスキはさざ波のような音型の繰り返しのなかから、強く心に訴えかけるメロディーを浮かび上がらせていく。眠っていた感情をかきたて、忘れていた光景を思い出させるメロディー。幼い頃からショパンとサティに興味を持ち、ハンス・ジマーやフィリップ・グラス、マイケル・ナイマンらの影響を受けながらも、ポップスを愛する彼女ならではの歌心である。
アルバムの最後に置かれた曲には“Le Nouveau Départ”(新たなる出発)というタイトルがつけられている。記憶を辿り、自身の感情をめぐる旅の終わり。躊躇いがちな3拍子に乗って、後ろを振り返りつつ、新たなる旅へと一歩を踏み出していく――。『Inscape』は内なる居心地のよい場所に立ち戻らせてくれたうえで、次の場所へと進む後押しをしてくれる作品なのである。
ちなみに、『Inscape』の楽曲はジャン=マルク・ヴァレが監督を務めるサイコ・サスペンス・ドラマ「シャープ・オブジェクト KIZU-傷-:連続少女猟奇殺人事件」に使われている。海外ドラマ・ファンも要チェックだ。