王舟が約3年ぶりとなるサード・アルバム『Big fish』をリリースした。滋味に溢れたフォーキーなメロディーと、盟友の潮田雄一(ギター)やmmm(フルート)らが参加した暖かなアンサンブルは健在。その一方で、打ち込みによるストレンジなビートや環境音楽的なアンビエンスも大胆に採り入れられており、人懐っこくも先鋭的という不思議なポップス集になっている。

飄々としていて軽やか、これまで以上に捉えどころがない『Big fish』の不思議な魅力を言語化すべく、今回は3人の論客によるクロス・レヴューを実施。キャリア初期から王舟を見てきた松永良平、音楽評論家としての活動の傍ら、レーベル〈rings〉を主宰し国内外の電子音楽/エレクトロニカ・アーティストを紹介してきた原雅明。ミュージシャン/映像作家としての側面も持つライターの小鉄昇一郎が『Big fish』の謎を解き明かした。 *Mikiki編集部

王舟 『Big fish』 felicity(2019)

個人的な営み=ソングライティングと社会的な作業=ミックスを等価に置いた、軽やかなポップス集
by 小鉄昇一郎

限りなくプライヴェートな、宅録ないし小規模なスタジオでの録音でのみ生まれえる、箱庭的で繊細なムードを放ちつつ、しかしどこかアッケラカンとした風通しの良さも感じさせる音作りは、アイヴス兄弟による宅録ポップ・デュオのウー(Woo)、ジェリー・ペーパー や細野晴臣のソロ・アルバムなどにも通じる空気感……王舟の3年振りとなるアルバム『Big fish』を一聴した感触はそのようなものだ。

『Big fish』収録曲“Lucky”
 

その〈風通しの良さ〉はどこから来ているのか? さまざまなな要因はあろうが、重要なのが〈抜けのいい〉ミックスのバランス感覚ではないだろうか。とりわけ低音のコシの太さが、ダンス・ミュージックのそれを参照としつつも、あくまでポップス・マナーの範疇で処理されている。

特に顕著なのが“0418”のサブベース――減退せずに鳴る音色が、〈周波数〉そのもののイメージを想わせてユニークだ――などはスピーカーで聴くとかなり強烈だが、iPhoneスピーカーから鳴らしても、キレイにオクターブ上で鳴るパッドの音色だけが残り、違和感がない。(言うは易しで、カンタンそうですが、これ実際にやろうとすると、難しいです! 中途半端にサブベースの中音域が出てしまって)

iPhoneスピーカーから聴いても損なわれない“0418”のグルーヴ……「いい曲はどういう環境で聴いてもいい」と言ってしまえば簡単だが、現代のダンス・ミュージックの標準的なベース音を含みつつ、ポップ・ミュージック=あらゆる再生環境を想定して鳴らすことを前提としたサウンド・デザインとして、低域寄りの中音域のスペースをどの程度出すか/抑えるか?という点において“0418”は非常にクールな着地点をキープしている。そしてそれはミックスよりも前段階、曲作りの時点からある程度計算されていたのではないか。           

言わばソングライティングという個人的な作業と、ミックスという社会的な作業を等価に進行させるセンスが問われるわけだが、例えばビリー・アイリッシュの作品などはそれを苛烈に突き詰めた末に生まれた音楽と言えるのではないだろうか。

『Big Fish』は、そんなスマートなバランス感覚が作品全体を支えているポップス集だ。サウンド面では極めて現代的なアプローチがなされた作品でありつつ、このある種の〈軽み〉は、時代を経ても、折につけ触れたくなる種類のものではないだろうか。

 

寄る辺なきストレンジャーが未来に運ぶ、誰でもない歌
by 松永良平

王舟のセカンド・アルバム『PICTURE』(2016年)がリリースされるタイミングで、ceroの髙城晶平×シャムキャッツの夏目知幸×王舟という友人同士とも言えるミュージシャン/シンガー・ソングライター同士の対談(進行は僕)が動画でアップされたことを覚えている人はいるだろうか? いまもYouTubeには残っているので、お時間ある方は、特にその〈パート2〉を観てほしい。

王舟と夏目知幸(シャムキャッツ)、髙城晶平(cero)の座談会のPART 2
 

その冒頭で、髙城が王舟の曲“ディスコブラジル”(2015年)の歌詞の一節に出てくる日本語としては不思議な言い回しについてある指摘をする。そして「王舟は生まれた場所である上海の言葉もそんなに話せないし、英語も日本語もそんなに得意じゃない。本物のストレンジャーじゃん」と言ってみんなが笑う。全体のなかでは短いやりとりだけど、あの場で交わされていた言葉は、王舟が作る音楽のコアにあるものにかなり近いところまで触れていたと思う。

それこそCD-R時代の『賛成』『THAILAND』(ともに2010年)から最新作の『Big fish』に至るまで、王舟の音楽に一貫しているものは、そこにあったはずの〈痕跡〉を思い、探し、さまようことだ。

生まれた国で小さなころに当たり前に話していた言葉や記憶がかすんでゆく。そんな体験を、人は特別なことのように感じるのかもしれないが、はたしてそうだろうか? 僕ら、自分が3歳だったときのことすらよく覚えてないのに。王舟が音楽と言葉を通じて提示する〈ストレンジャー感〉は、世界を放浪した本物の旅人だけが持ちうるものではなく、むしろわれわれすべての裡(うち)に宿るもの。宿っているけど、その確かなありかを永遠に探し出せないものだ。だから、王舟の作品を聴くと、いつも気持ちは和まない。記憶の痕跡を探して、心は定まらず、うろうろとする。不意にそれが手掛かりにぶつかったような気がしたとき、人は〈懐かしい〉と感じたりする。

それとも『Big fish』の“Kaminariana”の〈かみなりさまが〉という歌い出しの一節に、僕ら日本人リスナーは虚を衝かれながらも小さいころに母親が読み聞かせしてくれていた絵本のことを思い出すかもしれない。それはこの日本で、僕らが自分の生きてきた時間のなかにも王舟を発見するということでもある。その〈懐かしさ〉は僕らの心に埋もれていた〈痕跡〉を、こんなにも大きくあらわにする。

王舟には英語詞の曲も少なくないが、そのほとんどにははっきりした意味はなく、曲によっては文法的に成り立たないものもある。それが〈王舟語〉なのだからそれでいい。意味はなくても音として気持ちいいならいいじゃないか。そういう割り切った飲み込み方もうなずけるものだが、最近僕はもう少し違う受け止め方をしている。

王舟の音楽は、たとえば20世紀アメリカのフォーク・ソング/フォーク・ブルースを現代に伝えた存在である〈ホーボー〉と呼ばれた放浪のシンガーたちにある意味もっとも近く、ある意味でもっとも遠くまでたどりついた歌なんじゃないか。ウディ・ガスリー、ハンク・ウィリアムス、ジミー・ロジャース、ピート・シガー家の黒人家政婦であり、自己流で覚えたギターとともに歌ったエリザベス・コットン、あるいは彼らよりもはるか以前から生活の歌をただただ歌っていた名もなき人たち。彼らには歌の意味より先に歌うことがあり、やがて〈意味〉は歌のなかに〈痕跡〉として残るだけになっていく。だから、その歌は自然にもともとあった場所を離れて、人に憑依してゆく。ストレンジャーだからこそ、誰でもない歌を未来に運べた。王舟の英語は、その系譜をごく自然に(無意識の裡に)受け継いでいる。

ぼくらの時代にはウディ・ガスリーやハンク・ウィリアムスはいないけど、ここに王舟がいる。『Big fish』は、21世紀にウディ・ガスリーが生きていたらエレクトロニクスを触っているのが自然だったろうとも思わせてくれるよね、とか。

 

70年代のリズムボックスと現行のビート・ミュージックを結ぶ線に立つ
by 原雅明

チャカポコと鳴るチープな響きが魅力なアナログのリズムボックス、Maestro Rhythm Kingを、生音と歌とのコンビネーションによって最高のサウンドに変えたのが、スライ&ザ・ファミリー・ストーンの『There's a Riot Goin' On』(71年)だった。ティミー・トーマスもシュギー・オーティス※※も、リズムボックスの魅力を教えてくれた。それらは派手で押し出しの強い均質化したサウンドの対極にあるものとして、サウンドのレイヤーを際立たせた。70年代の話である。

※70年代を中心に活動、ヒット曲“Why Can’t We Live Together”で知られるソウル・シンガー
※※70年代から現在まで活動するギタリスト、74年作『Inspiration Information』はシカゴ音響派にも大きな影響を与えたと言われている
 

80年代に入ると、プログラミングもできるRoland TR-808のようなドラムマシンがリズムボックスに取って代わり、プリミティヴなサウンドとそれを際立たせるレイヤーは音楽から消えたかに見えた。だが、制作環境がPCのソフトウェアに移行すればするほど、アコースティック楽器の生音とエレクトロニクスのレイヤー、楽音とノイズ/環境音のレイヤーは、より複層的になり、表現を豊かにしていった。

特にプログラミングされたビートに歌を乗せる手法が、グリッドに歌をはめ込んでいくというやり方までに至ると、それに抗うようにより自由度の高いバックトラックが求められ、アンビエントやドローンにまで行き着いた。一方で生演奏は、コンピュータ化、マシン化のプロセスに抗うようにその精度を高めた。歌がいまの時代に成立している背景にはそんなシチュエーションがある。

王舟の音楽のルーツにあるものは、特定のジャンルでもアーティストでもなく、こうしたシチュエーションなのだと思う。シンガー・ソングライターとして弾き語りをすることも、宅録でトラックを作って歌うことも、ミュージシャンと曲を作り上げていくことも、彼のなかではまったく等価に存在している。それは極めて現代的で、素直なスタンスであると思う。

だから、『Big fish』はドラムもベースもアコースティック・ギターもピアノもクラヴィネットもエレクトロニクスも、そしてヴォーカルそのものも、それぞれはギミックなしのシンプルな響きだが、それらが織り成すレイヤーは複雑で鮮やかだ。まるでビート・ミュージックのようにキープされる低域と、奥行きのある処理やくぐもった残響が立体的な音像を作り出していく。オーディオ的な快感が感情を揺さぶるのは音楽を聴く醍醐味だが、それをもたらしてくれるアルバムだ。

このアルバムのハイライトは、僕にとってはあのリズムボックスへのオマージュに聴こえる“Muzhhik”である。

 


LIVE INFORMATION
王舟『Big fish』release party

2019年7月5日(金)大阪CONPASS
開場/開演:19:00/19:30
前売り:3.500円
出演:王舟(バンドセット)

2019年7月14日(日)東京・渋谷WWW
開場/開演:17:30/18:30
前売り:3.500円
出演:王舟(バンドセット)
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