ショッキング・ピンクから派生した色鮮やかな音世界に浮かぶ、時を超えた彼女の姿──20年前のメロディーと現在の言葉をしなやかに重ねた新作が完成!

ショッキング・ピンクのアルバム

 20年の時を超えて過去と現在の自身を結び付け、普遍的な魅力を備えたポップ・ミュージックへと昇華させる。これは記念碑と呼ぶに相応しい、新たな傑作と言っていいだろう。鬼束ちひろがニュー・アルバム『HYSTERIA』をリリースする。今年でデビュー20周年を迎え、2月に新曲“書きかけの手紙”を含むベスト盤『REQUIEM AND SILENCE』を発表。NHK「SONGS」に出演し、“月光”“流星群”“書きかけの手紙”を全身全霊で歌う姿も大きな話題を集めた。順調な活動を継続している彼女が次に取り組んだプロジェクトは、デビュー前後に書き溜めていた未発表の楽曲を形にすること。ディレクターにデモ音源をすべて渡し、厳選された楽曲に現在の彼女が歌詞を乗せるというスタイルで創り出された作品が、この『HYSTERIA』だ。

鬼束ちひろ 『HYSTERIA』 ビクター(2020)

 「〈昔のデモを曲にしてみない?〉というアイデアは以前からあったんですけど、私が嫌がってたんですよ。“月光”(2000年)の頃に書いた曲なので歌詞が若すぎるし、メッセージも強すぎて。この企画をOKしたのは、信頼しているディレクターの熱い要望ですね。〈ビリー・ジョエルの『Songs In The Attic』(初期の隠れた名曲を中心としたライヴ盤)のような感じでやってみない?〉と言われて、だったら、歌詞を書き直そうかなと」。

 20年前に紡いだメロディーに対して新たに歌詞を書く作業は、普段は言葉とメロディーを同時に生み出すことが多い彼女にとって初めての体験。「かなり苦戦したけど、楽しかった」という作詞は、アルバム全体の色合いとタイトルを決めるところから始まったという。

 「ショッキング・ピンクのアルバムにしよう、というところから始まったんです。私のなかでのショッキング・ピンクは、神経症――ヒステリアのイメージと繋がっていて。それをもとにして、選ばれた曲に歌詞を書いていきました。時間をかけるとハマってしまいそうだから、1週間くらいで一気に書いたんですよ。40才の自分が〈作詞家〉として歌詞を書くのは新鮮だったし、終わったみたら〈楽しかったな〉って。20年前のメロディーに今の自分が歌詞を書くのがアリなのかわからなったけど、結局は同じ私だし、世界観は崩れないのかなと」。

 編曲とサウンド・プロデュースは兼松衆が担当。TVドラマ/映画/アニメなどの劇伴を多く手掛ける一方、King&Priceや手嶌葵、薬師丸ひろ子ら幅広いアーティストへの楽曲提供や編曲を行っている気鋭のクリエイターだ。鬼束ちひろとの最初の接点は、ドラマ「ポルノグラファー~インディゴの気分~」の主題歌に起用され、今作にも収録されている“End of the world”のアレンジ。クラシカルなピアノ、洗練されたストリングスを軸にしたサウンドは、深い祈りにも似た歌声を際立たせ、彼女の新たな音楽世界を花開かせていた。その手腕はアルバムの制作でも存分に発揮され、ギターに西田修大と君島大空、ベースに越智俊介と鳥越啓介、ドラムスに吉田雄介といった気鋭のミュージシャンと共に、大らかな美しさと憂い帯びた情感を持つ『HYSTERIA』の世界を構築している。

 「“End of the world”のアレンジをやってもらって、どういう音を作る人かもわかっていたし、ディレクターからも〈今回もぜひ一緒に〉という話があって。兼松さんもそうですけど、ミュージシャンがみんな若くて、『インソムニア』(2001年)を10代の頃に聴いてた世代なんですよ。オケ録りも初めて見させてもらって、〈ここはマイナーから始まったほうが良くないですか?〉とか、気になるところだけ意見を言わせてもらったんですが、とてもいい演奏でしたね。“「蒼い春」”という曲のエレキ・ギターもいいし、“swallow the ocean”には、ピアニストとしての兼松さんが一番出ていると思います。私は以前からミュージシャンに恵まれているけど、今回も運命的な出会いでしたね。ただ、歌うのは難しかったです。メロディーを書いてから時間が経っているせいもあるけど、こんなに難しいメロディーを作ってたんだなって。まあ、それも頭で考えているわけではなくて、歌うときは動物的なんですけどね」。

 

ただ〈想ってる〉

 他にもトピックとなる楽曲はさまざまあるが、まずは先行配信された“憂鬱な太陽 退屈な月”。凛とした緊張感と大きな解放感が交互に訪れる構成、メロディーに寄り添いながらサビに向かって圧倒的なカタルシスを演出するアレンジが一つになったこの曲は、本作の充実ぶりを象徴している。

 「マイナー調だけど、すごくポップな曲ですよね。アレンジされた音源を聴いたときに汗ばむ感じがあったので、〈8月の恋が書きたい〉と思って。そのあたりは直感というか、肌感覚ですね。以前からずっとそういう感覚で歌詞を書いてますけど、いまのほうがもっと研ぎ澄まされているかな」。

 続けて、「日常で感じたことが反映されている曲もありますね」とも語る鬼束。日々の生活のなかで自然に飛び込んでくる感覚や触感、色とりどりの感情を詩情豊かな歌詞へ導くセンスは、ここにきてさらに奥深さを増している。それを象徴するのが、“ネオンテトラの麻疹たち”。重厚なバンド・サウンド、低音の響きを活かした声と共に、麻疹のように伝染する恋を描いたロック・テイストの楽曲だ。

 「“ネオンテトラの麻疹たち”の歌詞は、サンシャイン水族館で見たネオンテトラの印象がもとになっていて。集団で動くんですけど、それがすごくきれいで、しばらく見ているうちに〈恋愛が伝染る感じに似てるな〉と。街には恋人たちがいっぱいいますけど、それを見るたびに、恋が伝染しているようなイメージが浮かぶんですよね。そういう意味では、日常から派生しているものが歌詞になっているのかも……。“UNCRIMINAL”もそうですね。この曲にはもともと“ホログラムの誘惑”というサブ・タイトルが付いていて。ホログラムネイルの材質が好きで、そのイメージが反映されているんです」。

 凛とした強さを放つピアノ、神聖な響きを称えたメロディーを軸とするバラード“Dawn of my faith”も心に残る。〈愛させてほしい 守らせてほしい〉というラインには、SNS上でのファンとの交流の影響もあるのだとか。

 「私のファンの方は、自分に全然自信がなくて、謙虚なんだけど、〈ちいちゃん(鬼束)のことをずっと応援させてほしい〉というタイプが多くて。意識しているわけではないけど、どこかでファンの人たちのことを想って書いた歌詞かもしれないですね。アルバムの最後に入っている“Boys Don't Cry”もそう。最近、いい意味で繊細な男の子が多い印象があって。群れるんじゃなくて、一人で涙を堪えているというか。そういう人に向けてるところもありますね」。

 〈歌を通して、リスナーに手を差し伸べたい気持ちもある?〉という問に対して、「何かをしたい、とか〈こうあるべき〉というメッセージはまったくなくて。ただ〈想ってる〉ということですね。その感覚はずっと変わってないです」と答えた鬼束ちひろ。20年前と現在を重ねた本作「HYSTERIA」によって、彼女はアーティストとしての本質を改めて示すことになるだろう。

『HYSTERIA』に参加したアーティストの関連作品。

 

鬼束ちひろの近作。

 

サウンド面の立役者、兼松衆が語る鬼束ちひろと『HYSTERIA』

 「『インソムニア』(2001年)を何度も何度も繰り返して聴いていたのを覚えています。当時13歳のもっとも多感な(!)時期でしたので……今でも1曲目から順番に聴いていると、山奥の学校に通うバスから見えていた風景を思い出します」――鬼束ちひろとの出会いをそう語るのは、『HYSTERIA』のサウンド・プロデューサーである兼松衆。そのコンセプトの基盤にも『インソムニア』があったという。

 「いただいたデビュー当時のデモテープはほとんどの曲がピアノと歌だけで、まるで時空を超えて当時の鬼束さんと対峙しているような……不思議な感覚がありました。制作のコンセプトとしては『インソムニア』のアコースティックな世界観でいこう、と。ただ、単なる『インソムニア』の焼き直し/ゼロ年代ノスタルジーのようにはしたくなくて、2020年時点の自分が考えるアコースティック楽器の扱い、レンジの広い音像のようなものは強く意識しています」。

 そうした出発点から完成した『HYSTERIA』は、鬼束のダイナミズムな歌唱をピアノとストリングスが支える“憂鬱な太陽 退屈な月”、情感溢れるバラード“焼ける川”といった〈ザ・鬼束ちひろ〉とでも言うべき先行曲や、兼松自身の挑戦が仕込まれた“ネオンテトラの麻疹たち”など、流麗な流れを持つ全10曲に仕上がった。

 「“憂鬱な太陽 退屈な月”はものすごく広い音域で、かなり言葉数の多いメロディーを歌い上げる曲ですので、その歌唱に急き立てられるようにアレンジの温度感もヒートアップしていったような気がします。“焼ける川”はデモを一聴して〈只事ではない……〉と震えました。とんでもない強度のメロディーと歌詞ですので、負けじと私の筆圧も高まっていった結果、〈鬼束VS兼松だね〉って笑われてしまいました……。“ネオンテトラの麻疹たち”は、これくらい隙間の多い、けれどストリングスはなぜか分厚いR&Bサウンドをいつか一曲やってみたいと思っておりまして、この機会にプレゼンしてみたところ採用されて夢が叶いました。ただ、演奏が熱くなってしまい、最終的にあまり〈隙間〉は多くなりませんでした……(笑)」。

 また、本作のミニマルながらドラマティックなアレンジの背景には、参加ミュージシャンたちによる名演も大きな貢献が。高木大丈夫、元吉田ヨウヘイgroupの西田修大、越智俊介(CRCK/LCKS)、吉田雄介(tricot)、君島大空といった日本のインディー/新世代ジャズ・シーンの精鋭たちが名を連ねているのも新鮮だ。

 「バンド・メンバーは、ここ2~3年くらい……? 私の録音ではいつもお願いしている方々ですが、このところ気になっていた君島大空君は、西田君を通じてダメもとでオファーしてみたところ、“「蒼い春」”で〈合奏形態〉のツイン・ギターが実現しました。間奏とエンディングのギター・ソロは君島/西田で割り振っているので、どちらが弾いているか注目していただけたら……。『HYSTERIA』は、聴いたことのないような先鋭的なサウンド、ということではなく、かといってノスタルジーに浸ることもなく、また次の20年が過ぎてもずっと聴き続けてもらえるような……聴く人にとってそんなアルバムになったら嬉しく思います。お楽しみください」。 *bounce編集部

兼松衆が参加した近作。