2000年代前半から京都で活動を始め、その後東京に拠点を移すも、2009年に京都へと帰還。2013年に故郷の富山へと戻るまでは、ギターを背負いながら全国津々浦々を旅してきたシンガー・ソングライターのゆーきゃん。その足取りは、2015年のアルバム『時計台』リリース時に筆者が書いたコラム〈世界一声の小さなSSW、ゆーきゃんの15年〉に詳しい。
ゆーきゃんは現在、富山にて学校の先生を生業としながら、音楽家としての活動もマイペースに続けている。そんな彼から4年ぶりの新作『うたの死なない日』が届いた。もともとは音楽配信・情報サイト、OTOTOYが始めたコロナ禍でのライブハウス支援企画〈Save Our Place〉の対象作品として、4月にデータのみでリリースされた同作。ゆーきゃんの近作は、山梨・白州に位置する田辺玄(WATER WATER CAMEL)のホーム・スタジオで録音されていたが、このアルバムはゆーきゃんにとって第二の故郷と言うべき京都でレコーディングされている。
スーパーノアの岩橋真平(ベース)やLLamaの吉岡哲志(ギター)といったロック・サウンドを得意とするプレイヤーの貢献もあってか、バンド・アンサンブルはいつになくアグレッシヴでパワフル。リズム隊のグルーヴィーなコンビネーションと、ギターやキーボードが作り出すサイケデリックなサウンドスケープは、ときにゆーきゃん流ポスト・パンク/ノーウェイヴといった表情も見せている。
『うたの死なない日』があらためて全国流通盤としてCDリリースされたことに合わせて、ゆーきゃんにインタビューを実施。彼は、今回の再販売を「美しいものへのある種の冒涜なのかもしれない」と語った。その真意に迫る。
生徒がゆーきゃんに与えた大きな影響
――このコロナ禍でゆーきゃんの務められている高校も休校期間があったり、ふだんの学校生活でも注意すべき点が増えたりと大変なんじゃないですか?
「うん、大変だけど、そのなかで何ができるかを考えたり議論したり、休校期間で遅れたぶんの授業をどうやって元に戻していくのかとか、常に何か考えたり作ったりし続けている感じはあって。基本クリエイティヴな作業なので、しんどいとかはそんなにないです」
――先生をやっていることで、ゆーきゃんとしてのアウトプットにも変化があるのでは……と想像しますが。
「生徒に影響を受けているとは思います。青臭いことや純粋であろうとすることに後ろめたさを感じなくなった。ひねくれなくなりました。ひねくれ方がシンプルになったというべきかもしれない」
――以前のゆーきゃんはひねくれていた?
「自意識が自分のなかで乱反射していて、どこにも出ていかない、出口がないみたいな感覚はあったような気がする。いまは自己承認欲求ってものが限りなく薄まりました。俺はこうありたいんだとか、こう見てほしいんだとか、ほとんど考えなくなりましたね」
――過去の自分の音楽を聴くと、承認欲求を感じてしまう?
「うん、残念ながら(笑)。この人、この時期とても認められたかったんだろうな、認められない自分に苛立っていたんだろうなって。あるいは表現したいものはあってもそこに到達できない自分に対しての悲しみがあったんだな、とか」
――じゃあ、メンタル面ではより健やかな状態で音楽に臨めているのかもしれませんね。
「そうですね。正直に言うと〈もういいか〉と思ったのも事実で。ミュージシャンとして大成することより、未来を作る側、準備する側に回ることのほうが、自分のすべきことなんじゃないかという気はしたんですよ。だから、今回のアルバムももともとリリースしようとかは考えていなかったんです。誰かに評価を求めることはもう必要ないし、自分のなかではちょっと違うかなと思っていて」
――評価を求めることへの違和感とは?
「モノを作ることや歌を歌うことはそれ自体が喜びであるし、かげかえのない創造であって、それで十分じゃないかと思った。それに対して世に評価を問うことで、やっぱり一喜一憂しちゃうし、何も反応がなかったら焦ったり、すねたり、ひがんだりすることにも繋がる。そういうことに心をわずらわせたくないんです。
富山に来て最初の頃は、取り残されていくことへの焦り――自分と関係のないところで音楽業界が回っていることへの筋違いな怒りや寂しさもあったと思うんですけど、だんだんそれを受け入れられるようになって、それがどうしたと思えるようになった。そういう一喜一憂は、根本的には音楽自体と関係のない次元の話だと思ったんです」