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 「69 Pages」のページをさらに読み進めてみると、バッドのコンサートを開催する経緯が芦川自身によって綴られている。芦川は、75年から西武デパート池袋店にあった西武美術館に付設されたアートショップ〈アール・ヴィヴァン〉の音楽コーナーを担当し、当時、ほとんど日本では入手が難しかった現代音楽や実験音楽のLPや書籍、楽譜によって、そのコーナーを埋め尽していった。当時、音大生だった僕は、〈アール・ヴィヴァン〉に頻繁に通い、芦川の勧めにしたがって買い求めた多くのLPや楽譜は、いまでは、貴重なコレクションとなっている。そのなかには、当然、バッドの『The Pavilion Of Dreams』や『The Plateaux Of Mirror』も含まれていた。

 芦川は、彼自身が傾倒していったサティやケージ、イーノたちの音楽を紹介するだけでなく、自らが環境的な方向性をめざした〈Wave Notation』というレーベルを82年に立ち上げ、その一枚目として吉村弘の『Nine Postcards』、それに続いて芦川の『Still Way』のアルバムが相次いでリリースされた。さらに、その翌年の1983年には、〈サウンド・プロセス・デザイン〉という環境的な音楽を制作する会社を設立し、芦川は、あらたな領域に船出しようとしていたのである。

 〈Wave Notation〉から、あらたにハロルド・バッドのアルバムをリリースすることを芦川は夢見るようになったと「69 Pages」のなかで語っている。そんな折り、バッドが日本に来てコンサートをやってみたいという話しが芦川のもとに舞い込んでくる。そして、芦川はアルバム制作とコンサートのオファーをバッドに送ると、しばらくして、バッドから手紙があり、アルバムは難しいが、ぜひ、コンサートをやってみたいとの意向が芦川に伝えられた。そして、〈サウンド・プロセス・デザイン〉が制作する初めての事業として〈Harold Budd Piano Concert〉が実現した。「限りなく優しいハロルド・バッドの音楽。その音楽を日本に直接紹介できたことは誇りである」と語る芦川。しかしながら、その1-2ヶ月後に飛び込んできた芦川の訃報は、じつに衝撃的だった。

 日本で初めてのバッドのピアノ・コンサート。そして、芦川聡の突然の永眠。83年は、日本の環境的な音楽の方向にとって忘れがたい年だったといえる。芦川が設立した〈サウンド・プロセス・デザイン〉は、その後、彼の遺志を引き継ぎ、環境的な音のデザインの事業を推し進め、99年には〈Crescent〉というCDレーベルを立ち上げて芦川の『Still Way』をリリースしている。〈風景としての音楽〉の可能性を追い求め、環境的な音楽の黎明期の中心的な存在だった芦川聡は、バッドについて「69 Pages」のなかで次のような素晴らしい言葉を投げかけている。

 おそらくバッドはレンズ磨きの職人のごとく、気に入った音の断片を磨くように何度も繰り返して曲を創るのだろう。磨き上がったレンズ。それを覗くのは我々なのだ。そのレンズの覗き方ひとつで、風景は一変する。音楽と聴く主体との距離によって姿を変える音楽。私はそれを〈風景としての音楽〉と呼んでいる。風景のような音楽そして風景をみせてくれる音楽。まさにバッドの音楽は〈風景としての音楽〉なのだ。

 バッドの訃報に接して「69 Pages」のなかのよみがえった〈風景としての音楽〉。芦川の死後38年が経ったいまでも、〈風景としての音楽〉は、ソフト・ペダルを踏み続けるバッドのピアノの余韻と共鳴しながら、しずかに鳴り響いている。

 


PROFILE: ハロルド・バッド(Harold Budd)
66年、作曲家のジェラルドストラングに師事し、カリフォルニア大学ノースリッジ校で学士号を取得。“Coeur D’Orr”“Oak Of The Golden Dream”“Lirio”を完成させたのちミニマリズムと前衛音楽に自らの限界を感じ、一時作曲活動を休止。72~75年、ポピュラー・ジャズと前衛音楽を混ぜ合わせた自主制作作品を『The Pavilion Of Dreams』としてまとめる。ブライアン・イーノのプロデュースのもと、再デビュー・アルバムをリリース。アンビエント・ミュージックのスタイルを追究した。81年には〈Cantil Records〉を設立。2020年12月8日、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)による合併症のため死去した。84歳没。

 

PROFILE: 芦川 聡(Satoshi Ashikawa)
東京都出身の作曲家。アール・ヴィヴァンを経て82年にサウンド・プロセス(83年にサウンド・プロセス・デザインに発展)を設立、自身や吉村弘、広瀬豊などのアルバムを制作したが、83年に交通事故で急逝した。アール・ヴィヴァン勤務時代から、ブライアン・イーノの環境音楽を音楽雑誌で紹介するなど、日本のアンビエント・ミュージックの隆盛に尽力した。

 

PROFILE: 藤枝 守(Mamoru Fujieda)
カリフォルニア大学サンディエゴ校音楽学部博士課程修了。作曲を湯浅譲二やモートン・フェルドマンらに師事。植物の電位変化データに基づく〈植物文様〉シリーズを展開。著書に「[増補]響きの考古学」(平凡社ライブラリー)など。最近のCDにサラ・ケイヒルのピアノによる『Patterns Of Plants』や西山まりえによる『ルネサンスの植物文様』など。今年6~7月に福岡市にてモノオペラ「八雲の向日葵」を上演予定。現在、九州大学大学名誉教授。