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本年度アカデミー賞最有力! スピルバーグ監督の映画「ウエスト・サイド・ストーリー」――音楽の〈地下水脈〉の深さ、思い知る

 シェイクスピアの戯曲「ロミオとジュリエット」を1950年代のニューヨークに置き換えた「ウェストサイド物語」は1957年にブロードウェイ・ミュージカルとして誕生、1961年にロバート・ワイズ、ジェローム・ロビンズの共同監督で映画化され、世界に広まった。スティーブン・ソンドハイムの作詞、レナード・バーンスタインの作曲、ロビンズの振付が渾然一体となり、最も成功した〈ミュージカルの映画化〉だった。

 これに対しスティーブン・スピルバーグ監督(1946-)が脚本家のトニー・クシュナー(1956-)と組んで、新たに創作した「ウエスト・サイド・ストーリー」は、〈徹底的に映画〉あるいは〈ミュージカル仕立ての劇映画〉の手法を極めている。完成度は高く、2021年度アカデミー賞の最有力候補とされる。

 1961年版はニューヨーク現地でのロケーションが限られ、スタジオセットの中で撮られた映像を観客が、ミュージカルの最前列で鑑賞する感覚の映像。デジタルリマスター版のBlu-rayではプエルトリコ人を演じる俳優たちの、ミンストレル・ショー(19世紀の北米で流行した、白人が顔を真っ黒に塗って歌い踊る喜劇仕立ての演芸)を思わせるベタベタの黒塗りが目立ち、びっくりする。当時、有色人種の俳優がハリウッドに進出できる可能性は限られていた。ロビンズのコリオグラフィーも〈古典バレエを発展させたモダンダンス〉の様式感が厳格で、現代の躍動感とは趣を異にする。

 逆に、イタリア・ヴェローナのモンタギュー、キャピュレット両家の対立を描いたシェイクスピア以来の根幹――分断がもたらす悲劇への警鐘は揺るぎなく受け継がれ、旧作以上に強調された。よく考えれば、アメリカ合衆国とロシア(1961年当時はソ連)との対立、移民問題、国内の貧富差、少数者(マイノリティー)差別などの分断は今も全く、解決に至らない。2020年初からのコロナ禍パンデミック(世界拡大)を通じ、さらに激化したとすらいえる。スピルバーグ版で印象に残った場面を3箇所、挙げてみる。

 先ずは冒頭。プエルトリコ移民や黒人ら低所得層の集合住宅が解体されるなか、再開発を予告する看板が映ると、それはメトロポリタン歌劇場やジュリアード音楽院、皮肉にも今回のサウンドトラックを担ったニューヨーク・フィルハーモニックの本拠デイヴィッド・ゲフィン(旧エイブリー・フィッシャー)ホールなどが建ち並ぶリンカーンセンターの完成予想図だった(映画後半でプエルトリコ人女性たちが「メトロポリタン・オペラ……。白人のお金持ちたちの場所!」と吐き捨てるように歌い、伏線を回収する)。

 同センターの立地は正にマンハッタンのウェストサイドに当たり、1955ー1969年に再開発される前の地名は〈サン・ファン・ヒル〉。サン・ファンは偶然にも、アメリカ合衆国プエルトリコ自治連邦区の政庁所在地(独立国の首都に相当)の名称だ。ここで1曲、バーンスタインの原曲にはない音楽が追加される。プエルトリコ人グループ〈シャークス〉がアカペラで歌うのは19世紀、スペインからのプエルトリコ独立運動の中で生まれた革命歌“ラ・ボリンケーニャ”。ネットではプエルトリコの〈国歌〉とも紹介される。スピルバーグは現行版ではなく、オリジナルの強い抵抗の意思がこもった歌詞を採用し、ニューヨークの白人社会とプエルトリコ移民の分断を冒頭で明確に示した。

 2つ目はトニーとマリアの〈昼間のデート〉。2人の立ち位置の違いが顕在化する場面は、旧作では衣裳店の一角だが、新作は地下鉄〈A線〉に乗り、マンハッタン中心から北へ1時間ほどの〈190番街〉駅を降りた先にあるメトロポリタン美術館の別館〈ザ・メット・クロイスターズ〉に替わった。修道院を模した建物の中に約5,000点の中世ヨーロッパ美術を収めた観光スポットで、眼下にはハドソン川が流れる。トニーはグロサリー・ストアの〈今は亡き店主ドックの妻でプエルトリコ出身〉という設定の老女バレンティーナから教わったスペイン語でたどたどしく愛を語るが、マリアは笑い出す。言葉は分断の象徴であり、新作では全編にわたり、スペイン語の比重が高まった。ポーランド系のトニー(アントン)をバレンティーナが〈奇跡の子〉と呼び、デート先に美術館を選ぶセンスなどを通じ、マリアとは異なる文化圏の担い手であることが強調される。

 3つ目はヨーロッパ系移民グループ〈ジェッツ〉に付きまとい、「仲間に入れて」と懇願する男装女子エニーボディズのビジュアル。旧作のスーザン・オークスは〈いきがった少女〉程度だったが、新作のアイリス・メナスはほとんど男性にしか見えない。メナスのバイオグラフィーを検索すると、はっきり〈ノンバイナリー/レズビアン〉とカミングアウトしている。ノンバイナリーとは〈自身の性自認に男性、女性の枠を当てはめないセクシュアリティー〉。メナスが暴れまくる乱闘シーンは1950年代より、2020年代のアメリカを先取りしたような異彩を放つ。ここにも、分断への確かな視点がある。

 クシュナーは分断を際立たせるのに有効であれば、こうした〈現代化〉を躊躇しない。トニー、リフ、ベルナルドの生い立ちや境遇を明らかにする台詞を加え、ベルナルドの職業をボクサーと規定、妹を呼び寄せる程度に豊かな暮らしをマンハッタンで送れる理由も明らかにした。ジェッツの〈女たち〉もアニータのレイプ場面で止めに入るなど、より人間的な血肉を与えられている。半面、原作へのリスペクトをどこまでも貫き、過度の改ざんには手を染めない。ドック役を〈未亡人〉バレンティーナに差し替えたのは、旧作でアニータを鮮やかに演じた90歳のプエルトリコ人俳優、リタ・モレノへの深い尊敬からだろう。彼女は製作総指揮の一角にも名を連ねている。名曲“サムウェア”は、オリジナルのミュージカルでは舞台裏の〈ある女の子〉、バーンスタイン指揮の全曲盤ではオペラ歌手のマリリン・ホーン(メゾソプラノ)が歌ったが、新作映画ではモレノが語るように歌う。トニーとマリアの悲恋に対して無力な自分を嘆きつつ「どこかに安らげる場所があるはず」とつぶやく裏には、〈60年を経た今も世界の分断は全く変わらないどころか、ますます深刻になった〉と指摘する、制作チームの強烈なメッセージがこめられている。