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裸のラリーズが降りてきた

ドアが閉まる直前、最近は映像ディレクターとしても活躍している井手健介くんが隣にやって来た。ぼくに気がついてないようだったので、軽く挨拶。井手くんは元・吉祥寺バウスシアターのスタッフで、boidの〈爆音映画祭〉にも関わっている。今回の素材での〈爆音〉の作り方について何か彼に訊こうかなと思ったが、その矢先にドアが閉まって客電が落ち、Yoshitake EXPEの演奏が始まった。

念じるようにエフェクトを積み重ねて繊細でスペーシーな音像を作り出すギター。数十分の演奏が終わると、これまでとは別次元の雷鳴みたいなギターの独奏が大音量で鳴り響いた。

あ、降りてきた。

大げさな表現かもしれないが、まさにそんな感じだった。

ジーンズが四方からの音圧でひたひたと震えるのがわかる。そして、爆音、騒音、轟音……。過剰に大きな音を表す言葉はいくつもあるが、この音はどれとも違う。外側から圧をかけてくるのではなく、耳や目や身体中の穴という穴から〈内側に入ってくる音〉だと直感した。音楽に合わせ、裸のラリーズのVJを務めていた宇治晶氏による映像が、Overheads Classic+OverLightShow ~大箱屋~が手がける照明の演出とともに、スクリーンにゆっくりと浮かび上がる。

 

身体の内側に入ってきた裸のラリーズがグルーヴを解放した

73年、OZで記録された裸のラリーズは、70年代後半以降のサウンドよりもいくぶんフォークロック的な側面が強いという印象がある。水谷孝のボーカルもかなりはっきりと聴き取れるし、今回『The OZ Tapes』に先駆けて配信リリースされた“白い目覚め”に意外なほどのフォーク性やポップな楽曲構造を見出した新しいリスナーもいるだろう。だから、その時期の素材で、今回どんな音響が作れるのか興味があった。

だが、結論から言うと、そんな興味本位な考え方は最初の数分で砕け散った。開演前とオープニングアクトで、ぼくらの耳は音の細部やうねりに対して感覚を明らかに拡張されていたのだ。〈身体の内側に入ってくる〉と感じたのは、そのせいだったかも。歌詞の世界観やそれぞれの音の意図がかなりはっきりとわかるせいもあり、感受性がひらかれて、やがてくる〈あのギター〉に対して無防備になってしまっていた。

だからといって、このライブミックスに音の暴力を感じたわけじゃない。むしろ、この音像はノイズとは真逆な気がした。曲間はブレイクなく継ぎ合わされ、やがて今どの曲を聴いているのかを書き留めようとする頭のなかのメモすら無効化されてゆく。

だが、それは隙間をなくす作業ではなく、身体や心に動きや踊りをもたらすものでもある。気がつくと、周りにいた観客の多くがゆっくりと揺れ、踊り出していた。ひとりとして同じような踊り方をしていないし、なんならリズムにぜんぜん合っていない人もいるのだが、内側に入ってきた裸のラリーズが彼らのグルーヴを解放しているんだろうと素直に思えた。