70年代のジャパニーズ・ロック・シーンを語るうえで欠かせない重要グループ、久保田麻琴と夕焼け楽団。彼らは、ニューオーリンズ・ビートやブルースなどを吸収したアーシーなサウンドをクリエイトするアメリカーナ的志向を持ったロック・バンドの先駆けであり、レゲエや沖縄民謡といったエスニックな要素を取り入れたミクスチャー・ミュージックの最良形を提示していた。昨今はシティ・ポップの名曲“星くず”を放った集団として捉える向きもあるかもしれないが、いずれにせよ当時の日本のバンドとしては珍しいマルチカルチュラルな音楽性を持ったバンドであった。そんな夕焼け楽団のデビュー・アルバムからの3作品がこのたびデジタル・リマスタリングを施して復活する。マスタリングを担当したのは、誰であろう久保田麻琴その人だ。

近年は、島根在住のシンガー・ソングライター、浜田真理子や熊野の異能のギタリスト、濱口祐自のアルバムのプロデュース・ワーク、阿波おどりのディープな魅力を掘り起こす〈ぞめき〉シリーズや沖縄音楽再発掘プロジェクト〈かなす〉シリーズを手がけるなどワーカホリック的活動ぶりで知られる音の錬金術師だが、この度のリマスター盤は彼の手によって見違えるほどの変身を遂げており、旧CDでは味わえなかっためっぽうふくよかでアナログライクなサウンドが楽しめる。今回はその3作品が生まれた背景などを語ってもらうべく、久保田にロング・インタビューを行うことに。まずはリマスター盤発売記念としてYouTubeで配信(すでに公開終了)された、3作品に多大な貢献を果たしている細野晴臣との対談の話から。

 


70年代の自分の作品は恥ずかしくて聴けなかった

――昨日の細野さんとの対談でオンエアしたリマスター音源は、オリジナルのハイレゾ・マスターをそのままマスターレコーダーから再生したとのことでしたが、その音の素晴らしさに視聴者はみんなのけ反ってましたね。

「オリジナル盤ではマスタリング作業をやってなかったわけですよ。ミックスしたテープを脆弱な感じでカッティングされて終わっていたっていう。そもそもアナログは無難に良い音がするけど、もうワンプッシュできたはずなんだよ。マスタリング・エンジニアの存在は80年代に入ってからようやく注目されるようになって、クレジットに〈mastered by〉と出るようになったんだけどね。夕焼け楽団の頃は、ミックスが終わるとマスターテープを持ってカッティングの工場に行ったんです。マスタリングという工程が省かれていたわけ。

で、実際に工場に行ったらただテープを渡してそれでおしまい。どういう作業が行われているのかも見せてくれない。マスタリング作業はブラック・ボックスで、われわれは出来上がったもので確認するしかなかった。そのときから何か音が小さくなっていて、音が悪くなったんじゃないか?と疑問はあった。でも音を上げてほしいと要求しても絶対に応えてくれない。もしレヴェルを上げて針飛びしたりしたら大ごとだから。いま外国人はシティ・ポップだなんだと盛り上がっていて、当時の日本のレコードの音は独特だと言ってるけど、そういうところも関係しているのかも」

――なるほど、夕焼け楽団のマスタリングに関しては忸怩たる思いがあったわけですね。

「で、87年の『MADE IN ISLANDS』では、夕焼け楽団の16チャンネルのマルチ(トラックレコーダー)を使ってジャマイカでリミックスしたんだけど、そのとき初めてマスターをニューヨークのマスタリング・スタジオ、マスターディスクに持ち込み、ハウィー・ウェインバーグの作業現場を見たんです。すごく驚いた。こんなことをやっているのかと。そりゃ音が良いはずだと。

たかだか3つぐらいのプロセッサーを通すだけなのにガラリと変わる。つまりスタジオでミックスされたテープの周波数帯域の彫刻を行うわけだ。近い機材は日本にも前からあるんだよ。でもマスタリングでどう使えばいいのか、ほとんどの人がわかってなかった」

――ジャマイカでのリミックスを収めた『MADE IN ISLANDS』と、89年にインドネシアで行ったリミックスを集めた『MADE IN ISLANDS vol.2』はリマスターされて、今回のボーナス・ディスクとして同梱されていますね(前者は『ディキシー・フィーバー』に、後者は『ハワイ・チャンプルー』に収録)。

「『MADE IN ISLANDS』の音はほぼ出来上がっているんだけど、やっぱり90年の音の問題があってさ。カチンカチンな音がするんだ、あの頃のプリンスのアルバムのように。ま、ジャマイカ/NYがそういう傾向だったから。でも70年代のホニャっとした音がよくもあんなに変化したなと思うけど。

87年作『MADE IN ISLANDS』収録曲“上海帰り”
 

ということもあって、ずっとマスタリング作業を行っていれば、70年代の夕焼け楽団に関してはもっと良くなるはずだという思いがあり、今回ちゃんとしたマスタリングをしたいというのがリイシューを了承する条件だったんだよね」

――しかし、今回のようにあの頃の作品とじっくりと向き合う作業ってこれまであまりなかったんじゃないかと。

「そもそもあまり自分のことをやらないから、私は。正直、作品と距離があり過ぎて、どこかよその誰かが作ったものをやっている感じだった」

――ずっと客観的な意識が働いていたわけですか。

「そうだね。そういえばこの演奏、ちょっと聴き覚えがあるな、ぐらいの感じ。この歌詞、けっこう良くできているじゃん、みたいな(笑)。とにかく長い間、70年代の作品は恥ずかしくて聴けなかったの。音が良くならなかったというフラストレーションもあったしね。カッティングのときのトラウマも含めて、どうしてもエンジョイできない。だからいまの自分があの頃に居たらなぁ……ってつくづく思うよ。あのとき自分が必要としていた存在に50年かけてようやくなれたなって」

――それはプロデューサー的な存在としてのお話ですか?

「プロデューサーであり、エンジニアとしてだね」

――3作品におけるプレイヤー、パフォーマーとしての久保田麻琴をいまの目で見て、どう映りますか?

「大したことはしていないですよ。っていうかね、あの音楽ってあの時代ならではの産物なんですよ。ベビーブーマーのオーディエンスたちがいて、多少ヒッピーかぶれだった彼らが求めていたアイコンになっていたって感覚があるな」

――そういう空気をひしひしと感じながら、音楽に向き合っていたんですか。

「周りの求めるアーティスト像に自然と近づいていったところはあるかもね。よって時代が変わってしまったら、さっさと退場するのみ。もともと音楽家になろうという気持ちはさらさらなかったわけだし。もちろん音楽は好きでしたよ。あと自宅で録音する作業も好きだった。ただ、まさか自分が表に立つなんてぜんぜん思ってなかったからね。拠り所だったのは音楽が好きだって部分だけ。

だから浜田真理子のような良い音楽家、あがた森魚のような唯一無二の声を持っている人が現れれば、私は喜んでヘルプする側へとまわる。60年代は選ばれた人しか歌手になれなくて、ゆえに良いものが残されやすかった。だけど団塊(の世代)以降が、俺も私もと叫び、多少のアーティスト気分を味わえてしまったこと、そこにアマチュアっぽい音楽産業が出来上がって混乱を招いたとも言えるな」

裸のラリーズ水谷孝からの着信

――う~む、なるほど。しかし、今回の3枚に共通しているのは演者たちがどこまでも自由気ままに音を紡いでいるおもしろさで、こういう空気って最近の作品にとんと見かけないものだよな、ってつくづく感じた次第で。

「自由気ままさもだけど、音楽的テイストはしっかりとあるね。誰にもできることではないが、それもパブリック・ディマンド次第だから」

――ええ。

「例えば裸のラリーズ※1は、ずっと長いことアンダーグラウンドな存在であるにも関わらず、外国では驚くほど有名な存在になっていて、アメリカでも大きなコンサートができるような状況なんです。向こうの若い子たちは自分が生まれる前のラリーズの音楽について、とても熱心に質問してくるんだよ、50年後に。ラリーズの音楽もやはりあの時代にしか生まれえないもので、長い間潜伏していた音楽だよね。実は最近、水谷(孝)と話をしたんですよ(電話やショート・メッセージでのやりとりは、2019年の8~9月にかけて数回以上行われた)」

※1 60年代後半に登場した日本のアンダーグラウンド・ロックの伝説的巨人にして最大の謎。目もくらむようなエレキ・ギターのフィードバック・ノイズとメランコリーに彩られた歌が生み出すあまりに特異な情感は、海を越えて海外のロック・リスナーをも刺激している。リーダーである水谷孝と久保田は京都時代に密接な関係を持ち、久保田は一時期ラリーズのメンバーとしても活動を行っていた
 

――えっ、そうなんですか!?

「生きているか死んでいるかも知らなかったんだけど、ある日いきなり電話があってね。いまアメリカではこんな状況だよ、って話をしたんだけど、本人もモニタリングしていて結構わかっていたみたい。その際、けっこう具体的な話まで進んだんだけどね。ラスト・ツアーってことで大ホール一本やればいいじゃない?とかさ」

――想像するだけで震えが来ますね、そのプラン。

「それが最後になるのか、あるいは終わりの始まりになるのかはわからないけども。そんな話で盛り上がって、けっして本人も悪い感じじゃなかったんだけど、やっぱり違うと思ったんだろうね、以後連絡が取れなくなってしまって。また霞の向こうに行ってしまった。そもそもラリーズは水谷そのもので、私たちはあくまでヘルプする立場なのでね」

――実現したら大事件でしたね。

「そうだよ、世界がひっくり返るかも」

75年に開催された〈ミルキーウェイ・キャラバン75・花まつりコンサート〉の記録映像。久保田麻琴と夕焼け楽団、裸のラリーズも出演している

 

夕焼け楽団ができるまで

――でもほんとお元気で何よりです。ところでラリーズに参加していた頃から、夕焼け楽団は始動しているんですよね?

「ラリーズと並行して、ドラムスの正田俊一郎と組み、ギターの洋ちゃん(藤田洋麻)、ベースのキンちゃん(恩蔵隆)と出会い、近場にいた4人でスタートしたの」

――麻琴さんが京都から上京後に拠点としていたのが、吉祥寺のライブハウス〈OZ〉。そこでライブを重ねながら音楽性を固めていったと思うのですが、当時やっていたレパートリーとかは?

「京都と東京をいつもヒッチハイクで移動していたね。その頃は知っている曲を手当たり次第にやっていた感じ。『まちぼうけ』(73年)に入っていた曲に加えて、カヴァーも多かった。パブ・ロック・スタイルというか、ブルースだけでなくハンク・ウィリアムスのようなカントリーも多かったし、あとビートルズや(ローリング・)ストーンズの曲もやってたな。でも大したコンセプトを持っていたわけではなかったね」

※73年にリリースされた久保田のファースト・ソロ・アルバム。アシッド・フォークの名盤として名高い
 

――当時はどういうバンドやアーティストを好んで聴いてらっしゃったのか。グレイトフル・デッドはお好きだったと思うんですが。

「60年代のサンフランシスコ・バンドは好きだったね。いつ頃に何を聴いていたのかは正確に言えないけど、10代後半にはリッチー・ヘヴンスが好きだったってことを最近思い出してたり。そのほか、ティム・バックリィ、ジョニ・ミッチェル、ジュディ・コリンズとか、60年代は彼らの音楽が好みだった」

――けっこうフォーキーな音楽が趣味だったと。

「そうそう。で、70年代、ロックに向かってからは、ジェファーソン・エアプレインやカントリー・ジョー・マクドナルドなどサンフランシスコ系ばっか聴くようになる。ヤングブラッズみたいなバンドにも親近感を抱いていたっけ。あと、ラヴィン・スプーンフルもずっとファンなんですよ。ロック・バンドだけどすごくフォーキーで、ジャグ・バンドのような曲もやったりするあの感じがすごく好きで、初期の夕焼け楽団が手本にした」

ラヴィン・スプーンフルの66年作『Hums Of The Lovin' Spoonful』収録曲“Summer In The City”
 

――77年の〈ローリング・ココナッツ・レビュー〉では、フロントマンのジョン・セバスチャンと共演されていましたね。

※77年4月8日~10日、東京・晴海国際貿易センターで開催。〈クジラを救おう〉をテーマに15,000人を動員した日本で初めてのベネフィット・コンサート
 

「OZっておもしろいところで、アンダーグラウンドなバンドに限らず、カルメン・マキやりりィといったメジャーなアーティストも出演していたんだよ。メジャーだけどちょっとヒッピーな匂いがする人達が。りりィがダルシマーを持ってステージに出ている写真とか残ってるよ。で、あるとき、ブルース・シンガーの大木トオルさんがOZでの私らの演奏を観たあとに楽屋に来て、君らのやっていることはとても良い、僕も本当はラヴィン・スプーンフルみたいな音楽がやりたかったんだ、って言われたんだよ」

――あの大木トオルさんが。

「そうなんだよ(笑)。いちばん最初に日比谷野音に出たときって大木さんの前座だったからね。まだバンド名が決まってなかったような頃」

――最初は久保田麻琴バンド、とか名乗っていたんですか?

「OZの最初の頃はそんなふうで、そのうち夕焼けバンドになり、サンセット・ギャングになり、やがて夕焼け楽団になり……って変化していった。あるとき、レパートリーを増やそうと4人で石川県の山奥の廃屋で合宿をしたんだけど、近くに学校があって、夕方になると運動場にすごく綺麗な景色が広がる。その時間帯にはもう練習なんてやってられない。みんなそこでフラ~っと遊びはじめるわけだよ。それから間もなくだよね、名前が夕焼け楽団に決まるのは」

――青春だなぁ(笑)。

「夕焼けが何よりも好きだね。ま、ザ・バンドみたいなものだ。村の人たちがそう呼んでいたからザ・バンドになったっていうさ。で、1週間ぐらい合宿して曲を作って、OZとか京都の拾得でやるようになった」

雑多なジャンルがごった煮になった『サンセット・ギャング』

――何年頃のお話ですか?

「72年ぐらいだったかな。73年はラリーズと夕焼けが両方存在していた。そうこうしているうちに最初のソロ・アルバム『まちぼうけ』が発表になり、(レーベルの)トリオからアルバムを作ろうという話が来て、次第にどんどん忙しくなっていく。そして作ったのが『サンセット・ギャング』」

久保田麻琴 『サンセット・ギャング』 Solid(1973)

 夕焼け楽団のファースト・アルバム。久保田麻琴のセカンド・ソロ・アルバムという意味合いもあった本作は、74年10月1日リリース。共同プロデューサーである吉野金次のスタジオ〈Hit Studio〉の階上にあったライブハウス〈ジャン・ジャン〉で無観客ライブのもと録音された。キャラメル・ママ/ティン・パン・アレーの細野晴臣や林立夫らに加え、バック・ヴォーカルに吉田美奈子や大貫妙子らが参加。レイドバック感満点のアーシーなバラードからザ・スパイダーズの有名曲をジャングル・ビートで料理した“バンバンバン”など多彩な楽曲、ブルースやジャズからカントリーやリズム&ブルースまで雑多なジャンルがごった煮になった音楽性が新鮮な驚きを与えた。
 

――『サンセット・ギャング』はリリース直後から話題になりましたね。

「その年はちょっとしたバンド・ブームだったんだけど、夕焼け楽団はその先駆けだった。シュガー・ベイブのアルバム(『SONGS』、75年)や、ウエスト・ロード・ブルース・バンド のような関西のブルース・バンドも少し後。彼らは、デビューが1、2年遅かったんだよ。

で、当時そういう日本のバンドがあまりいなかったせいもあって音楽雑誌ですごく大きく取り上げられたんですよ。見開き1ページだったんだけど、右側のページがブレバタ(ブレッド&バター)だったな。ちょうどイーグルスがブレイクしたり、サーファー・カルチャーも広がったりだとか、そういうタイミングで夕焼け楽団が有名になっていくわけ」

――『サンセット・ギャング』のクレジットで驚かされるのは、作詞家として活動を始めた頃の松本隆さんがドラムを叩いている曲があること。

「そういうのもホント無意識というか、偶然そうなったんだよ。正田俊一郎の叩けないような曲がいろいろあってね。いいドラムを叩くんだけど、ヒッピー道まっしぐらだったんで、彼は。ちょっと困っていたら、吉野さん(エンジニアの吉野金次)が松本くん呼ぼうか、と言いだして。まさかここではっぴいえんどとは。このアルバムでの彼の印象は、無口で、バシッと叩いて、お、さすが渋くて上手だなぁって思ったかな」

『サンセット・ギャング』収録曲“いとしのマリー”。松本隆がドラムを叩いている
 

――本作独特の趣として、ブルース・ジャムの“サンセット・サンセット”が入っていたりすることで。

「あれはOZでよくやっていたブルース・セッションをそのまま持ってきたもの。OZはブルース・バンドも多かったから。レイジー・キムという変わった奴がいて、アメリカの高校を出て、大学は早稲田だった。そのレイジー・キム・バンドに妹尾ちゃん(ハーピストの妹尾隆一郎)も入っていて、チャールズ・マッスルホワイトのバンドのようなしっぶいブルースをやっていた」

『サンセット・ギャング』収録曲“サンセット・サンセット”

ハワイと沖縄を結んだ『ハワイ・チャンプルー』

――そういうOZに流れていたムードをアルバムに反映させようとしたわけですね。その時代にプレイしたり、聴いていたりした音楽のエッセンスの集大成的な『サンセット・ギャング』を経て、次作の『ハワイ・チャンプルー』(75年)になると、かなり明確な夕焼け楽団サウンドが打ち出されてきますね。

久保田麻琴 『ハワイ・チャンプルー』 Solid(1975)

 75年11月1日リリースのセカンド・アルバム。初のハワイ録音を敢行。メンバーは、藤田洋麻、恩蔵隆、井上憲一といったメンバー4人に加えて、ペダル・スティール奏者の駒沢裕城、当時高校生の早熟のピアニスト、国府輝幸など。そして久保田の良き理解者であり、ハリー&マックの相棒でもある細野晴臣が共同プロデューサーとドラムスを兼務している。ハワイアンと沖縄民謡、それにニューオーリンズ・ビートやボサノヴァなどいっそう多彩なエッセンスのチャンプルー化に挑むなか、ことごとく成功を手中にしている見事なマスターピース。
 

「『サンセット・ギャング』を出したあと、久しぶりにアメリカに行ったんだ。昔は原盤が完成すると、リリースまで3、4か月ほどの期間があってさ、6月にミックスが終わり、もらったギャラを持って7、8、9と3か月ぐらい行ってた。で、帰ってきてからプロモーション活動をしたんだけど、その帰りにハワイに初めて行ったんだ。その体験があまりに強烈でね。

で、年の暮れには沖縄にも行き、そこでも衝撃を受けて、やがてハワイと沖縄を結ぶ線がつながったんだ。で、新しいアルバムはそのまま『ハワイ・チャンプルー』となったわけ。旅先ではしっかりネタを仕込んできたんだけど、帰ってきてから話しても誰も相手にしてくれなかった。そんななか唯一喜んでくれたのが細野さん」

――西表島を旅している途中、バスのなかで偶然耳にした喜納昌吉&チャンプルーズの“ハイサイおじさん”についてのエピソードですね。お土産に買ってきたシングルにいちばん反応したのが細野さんで、彼が提唱した〈チャンキー・ミュージック〉の方向性にも多大な影響を与えたという。新作は麻琴さんの頭の中に渦巻いていたものを形にしよう、というテーマがあったんですか。

「まぁ、そういったとこかな」

――スティール・ギターのコマコさん(駒沢裕城)の活躍ぶりもさることながら、共同プロデューサーでもある細野さんのドラム・プレイが素晴らしく、作品の軸となっていることは間違いない。

「いやぁ、あの人はリズムマンだよな。ベースでもドラムでも楽器はなんだっていいんだよ。歌い手としても実際に歌いやすいんですよ、細野さんのドラムって。リハ始めたときから、すごいよ、バッチリじゃん!ってなってね。

あの感じに似ているのは、伊藤大地くん。歌と共存したビートを叩き出せるということでは細野さん以来のドラマー。楽器を叩いているというんじゃなくて、心の中で歌をうたってるんですよ。シンギング・ドラム。大地くんって口笛吹きながら叩いたりするんだけど、それって頭のなかでメロディーが鳴っているってことなんだよね。細野さんも同様で、ポール・マッカートニーみたいに歌いながらベースを弾いているみたいでしょ?」

――ハイライトとも言っていい“ハイサイおじさん”のカヴァーですが、イントロにフィーチャーされた沖縄民謡“てぃんさぐぬ花”の演奏がアンビエントを先取りしていたって事実にも驚かされましたし。

「何にも考えずにやってたよ。ビックリしたのは、ジャマイカでミックスし直したときに、私のヴォーカル・トラックにメンバーの演奏が入っていたこと。つまり歌も演奏も同時にやっていたってことに気づいたんです。だからスタジオ・ライブなの、アレも」

『ハワイ・チャンプルー』収録曲“ハイサイおじさん”
 

――イントロだけあとで付けたわけじゃないんですね?

「違う違う。ちゃんとあのスティール・ギターの演奏から曲を始めているから。それは今回の3枚とも9割方そうなんだよ。それにしてはずいぶん綺麗に録れているなって思う」

――間違いなくその制作方法があのアルバムにおけるマジックの源泉となっていますよね。

「残念なのはマスタリングをアメリカでやれば良かったのに、そういう知恵が当時はなかったんだよね。昨日のオンエアでも、音が良い、コレなに!?って声がたくさんあがってたけど、オリジナルのアナログ・レコードを持っている人がそう言っているわけじゃない? そういうことなんですよ。だから40何年の時を経て、やっと完成した、っていうとヘンだけど、ようやく画龍点睛できたんだね(笑)」

 

ライ・クーダーやデヴィッド・リンドレーとの思い出

――スペシャル・サンクスの欄にライ・クーダーの名前がありますね。

※ブルースやカントリーなどアメリカ音楽のルーツ探訪に加えて、ハワイやカリブ海など世界各国の音楽エッセンスを採り入れたコスモポリタン・ミュージックをクリエイトするアーティスト。久保田がサウンド・プロデューサーを務めた喜納昌吉&チャンプルーズの『BLOOD LINE』(80年)にも参加。“すべての人の心に花を”のスライド・ソロなど印象的なギター・プレイを残している
 

「ハワイへ行く前、私とケンちゃん(井上憲一)がロサンゼルスに寄ったんですよ。そこでふたりがギターを買うんだけど、ライがすべて手配してくれたわけ。1日楽器屋につき合ってくれて」

――もともとライとの出会いって? 

「あんまりおぼえてないんだよな。初めて会ったのがそのときなのか、その前に一回会ってたのか。『ハワイ・チャンプルー』のレイアウトを担当してくれた田中汪臣さんは、クイックフォックスって出版社をやっていて細野さんや高田渡の古くからの友達でね、彼がどっかでライに紹介してくれた。その後『ハワイ・チャンプルー』のレコードは彼に送ったよ。そのときはもうギャビー・パヒヌイのレコードが出ていた。だからハワイにかなり詳しいわけですよ。

※『The Gabby Pahinui Hawaiian Band Vol.1』(75年)と『同 Vol.2』(77年)。ギャビー・パヒヌイのスラック・キー・ギターに衝撃を受けたライ・クーダーは74年にハワイに向かい、レコーディングに参加。そのときの模様を収めたこの2作は名盤の誉れ高い
 

スラック・キー・ギターにも詳しくて、楽器屋で実演してくれた。ハワイはこうやってチューニングするんだよ、って。でも企業秘密のチューニングだから、こちらにわからないようにすぐに弦を緩めてしまっていたけどね。で、私もギャビーに会えるかな、でも彼はきっと道路工事に出てるだろう、なんて話してた。

『ハワイ・チャンプルー』収録曲“ムーンライト・フラ”
 

なんか縁があるんだね。夕焼け楽団である野外フェスに出たときに対バンにデヴィッド・リンドレーがいて、私らが“ハイサイおじさん”をやったら、何なのそれ!?って興奮した彼が楽屋に飛んできたんだ。で、たしかライとリンドレーのツアーのときに、昌吉を楽屋に呼んだこともあった。昌吉はすでにそこでライと知己を得ているわけです」

※ジャクソン・ブラウンやウォーレン・ジヴォンのバックなどで知られ、自身もエル・ラヨ・エックスを率いてユニークなアルバムをいくつも残しているマルチ・ギター・プレイヤー。“ハイサイおじさん”に強烈なカルチャー・ショックを受けて以降、沖縄民謡に親しむようになり、さまざまな局面でかの地の音楽への愛情を表明している
 

――『BLOOD LINE』誕生の萌芽がそこにあったわけですね。あれも録音はハワイでしたね。

「楽器3本手持ちで、ライがひとりでホノルルにやってきた。そういったハワイ・コネクションがあったんだよ。で、74年は学園祭やライブハウスなどをまわっていたんだけど、75年になるとエリック・クラプトンの前座で武道館に立っていたからね。それからはホールでもやるようになるし、だんだんキャパがデカくなっていくんだ」

ライ・クーダーの77年のパフォーマンス映像
 

ニューオーリンズの熱にやられた『ディキシー・フィーバー』

――そういうなかで77年に『ディキシー・フィーバー』をリリースします。

久保田麻琴 『ディキシー・フィーバー』 Solid(1977)

 77年1月25日に発表された3作目。レコーディング・スタジオは、前作と同じくハワイの〈サウンズ・オブ・ハワイ〉を使用。勝手知ったる細野が共同プロデュースを受け持つことに。
 

「同じスタジオを使った理由は、慣れていたからってこと。コストは東京のスタジオよりベター、しかも機材は良かった。スタジオのそばにお化け出るような怪しいアパートを取って、歩いて通った」

――このアルバムの特色としては、ニューオーリンズ色が濃い目だということが挙げられます。

「77年のあたまに初めてニューオーリンズでマルティグラ体験をしているんだけど、心底ニューオーリンズに惚れ込んじゃって。そのあとサンフランシスコの友達のところに戻ったとき、私、熱出しちゃって、一週間寝込んじゃったんだ。それがあってアルバム・タイトルを『ディキシー・フィーバー』にしたわけ。ヒューイ・スミスの“Rockin' Pneumonia & The Boogie Woogie Flu”(57年)じゃないけど、いま考えるとあの経験はブギウギ・フルーだったな(笑)」

 

――大きいポイントとしては、偶然にもロニー・バロンをレコーディングに呼べることになったという出来事で。

「そうです。当時すでに彼のことはベター・デイズのメンバーとして知ってたし、ドクター・ジョンの片腕だってこともわかっていた。ピアニストとしてだけでなく、歌もめっちゃ上手いし、ライ・クーダーのセッションでも良いキーボードを披露していたんで、すごい奴がいるなと。そしたら、スケジュールが空いてるって言うわけだよ。こちらとしては、まさか!だよね。それで彼にハワイまで来てもらっだんだけど、アルバム全体が一気に濃くなった印象がある。

『ディキシー・フィーバー』収録曲“チャイナタウン・ブルース”。ロニー・バロンが鍵盤を弾いている
 

いつも無計画だったけど、天の助けがあって結果的にああいうふうになっていくんだよ。それとドラムを叩くはずだった林(立夫)くんが熱を出したことで、偶然スタジオにやってきたトラヴィス・(フラートン)が代わりに叩くことになる、なんて偶然もあった。なんでそうなったのかという経緯もすっかり忘れていて、人に言われて、そうだった!って思い出したぐらいでね。

※ビリー・ジョエルやグラハム・ナッシュへの参加でも知られるサンフランシスコのドラマー
 

ドラムをレンタルしたくてトラヴィスにセットを持ってもらったんだけど、実は自分もドラマーなんだって言うからちょっと叩いてもらったら、ビックリするほど上手くてさ。だったらレコーディングに参加してよって話になってね」

――彼の叩き出すビートがアルバムの色合いを決定しているところがある。

「アメリカンだよね、やっぱり。ああいうスタイルって誰もが叩けないよ。というわけで、偶然にしてはあまりに出来すぎな音が出来てしまったんだよね」

『ディキシー・フィーバー』収録曲“ディキシー・フィーバー”。トラヴィス・フラートンがドラムを叩いている
 

――『ディキシー・フィーバー』のあともロニーとの付き合いが続くとは思いもよらなかったのでは?

「そうだね。次のアルバム『ラッキー・オールド・サン』(77年)にも参加してもらったんだけど、そのときは最初からロニーを呼ぼうって話だった。当時彼は、ミーターズやドクター・ジョンも参加したアルバムを録りはじめているんだけど、何かの問題が生じて中断しているんだと話していてね。

もったいないからぜひ完成させたい、って言ったところ、日本コロムビアが、じゃあやりましょう、って乗ってきてさ。で、私たちがバックアップして作り上げたのが『The Smile Of Life』(78年)。(共同プロデューサーだった)細野さんはもうそろそろYMOが始まっていたぐらいだったかな」

ロニー・バロンの78年作『The Smile Of Life』収録曲“Moon Shinin, Bright”
 

――今回のリマスター作品のなかで『ディキシー・フィーバー』の素晴らしさは群を抜いていると個人的には感じていて。よりいっそうファットで粒立ちの良くなったサウンドに打たれまくっているんです。テキサスの方面まで足を伸ばして、南部一帯のスタイルを掘り下げようとする貪欲な姿勢もクッキリ浮かんでくるようで、こんなにカッコいいアルバムだったのか!なんていまさら気づかされたりして。

「より大陸的というかアメリカンな感じにはなったと思うんだけど、これまでになくバンドらしさが高まっていたんだよね。77年の音を聴くと、おっ、なかなか上手いバンドだな、って自分ながら思うもん。アティテュードというかニュアンスというかさ、よくこんなにうまくロック・バンドに成りきってるな!って(笑)。そういえば70年代の終わりだったかな、夕焼け楽団スタイルをおしまいにしようと話し合っていた頃に、カラパナのマネージャーが会いに来てね。アメリカでデビューしないかと」

――へぇ、そんなことがあったんですか。

「カラパナはもう解散していて、今度は夕焼け楽団をアメリカに売り込みたいと。でも、こちらとしては、え~もう終わろうって考えてるのに、これからアメリカかよ、っていう反応(笑)。ただ、もしもこの誘いが『ディキシー・フィーバー』の頃に来てたら考えてたかもしれない」

――いやはやなんともはや、って感じですね。

「その人は『ディキシー・フィーバー』を聴いて、もう少しアメリカ向けに作ればブレイクするんじゃないかって目論見があったんだろうけどね。ま、ズッコケちゃったよね。いまさらないでしょ、って(笑)」

 

理解されるかどうかなんて考えなかった

――このアルバムに収録された“星くず”が昨今シティ・ポップ・クラシックとして再評価されていますが、その辺の動きはどう映ってますか?

『ディキシー・フィーバー』収録曲“星くず”
 

「あれは洋ちゃんの曲なんですよ。たしかにシティ・ポップと呼ばれるような雰囲気はあると思う。当時はそんなこと思いもしなかったけど。ちょっとヤング・ラスカルズっぽいよね。“Groovin'”(67年)に似たムードがある。ヤング・ラスカルズやラヴィン・スプーンフルといったイーストコーストのバンドの匂いがあるなと感じて、ああいうディスコ・アレンジにしたんだと思う。いまシティ・ポップと呼ばれる音楽はドンズバですよね。ライト・ソウルみたいな感触があってね」

――それをふまえてお訊きしたいのですが、夕焼け楽団の音楽と現在の音楽シーンのつながりについて。麻琴さんはどう認識されていますか?

「もはや想像もつかない話だね。もう勝手にして、って心境だよ(笑)。しかしどうなんだろうな……今回リマスター作業を行い、40年という距離を置いたうえで見直してみて、評価ができるってわけじゃないけど、それがいったい何だったのかを理解できるというか、バンドを判断する目は、いまのほうが良いかもわからない。

当時を振りかえると、やればちゃんと受け入れてくれる土壌があったから、どうにかやっていたところもあった。ただ、録音する場合にはまた違う意識が働いていたんだよね。理解されるかどうかなんて考えなかったし。とにかくやれることをやる、って姿勢だけはいつ何時も変わらないんだけど」

――しかし、ほぼほぼ半世紀も前の作品になるわけですよね。それらが改めて世に問われるという、何とも言えない感慨があるんじゃないかと想像しますが。

「ミュージシャンとしての上手さとか卓越さがあったのかはともかく、音楽全体の響きとか個性はあると思う。でも、掘り起こすべき音楽はまだまだあるよ。例えば、身体を楽器にしている本物の歌手と呼べるのは、布施明やちあきなおみが最後じゃないか? この3月に布施明のコンサートに行く予定だったんだけど、残念ながらコロナのせいでキャンセルになっちゃって。2年ぐらい前に観たとき、この世のものじゃないぐらいすごかったよ。機会があればプロデュースしたいと思っている」

――それはぜひ実現してほしいですね。でも今回の3枚はどれも麻琴さんの歌声がこの上なく艶やかによみがえっていて感動的ですよ。久保田麻琴という稀有なヴォーカリストのかけがえのなさを改めてアピールする絶好の機会になると確信していますので。本日はどうもありがとうございました。

Photo by 津田充
本リマスター盤のリリースを記念した久保田麻琴とピーター・バラカンの対談(6月27日までの公開)

 

*2021年10月28日追記
久保田麻琴さんと水谷孝さんのやりとりについて

2020年6月4日に掲載された当インタビュー記事中の、久保田麻琴さんの「実は最近、水谷(孝)と話をしたんですよ」という発言について、Twitterを中心に誤解や憶測が生まれております。お2人のやりとりは2019年の8~9月にかけて数回行われたものですので、改めて正確な事実をお伝えしたく、本文に〈(電話やショート・メッセージでのやりとりは、2019年の8~9月にかけて数回以上行われた)〉という一文を追加いたしました。水谷孝さんと裸のラリーズについて、詳しくはこちらの記事もご覧ください。 *Mikiki編集部