70年代のジャパニーズ・ロック・シーンを語るうえで欠かせない重要グループ、久保田麻琴と夕焼け楽団。彼らは、ニューオーリンズ・ビートやブルースなどを吸収したアーシーなサウンドをクリエイトするアメリカーナ的志向を持ったロック・バンドの先駆けであり、レゲエや沖縄民謡といったエスニックな要素を取り入れたミクスチャー・ミュージックの最良形を提示していた。昨今はシティ・ポップの名曲“星くず”を放った集団として捉える向きもあるかもしれないが、いずれにせよ当時の日本のバンドとしては珍しいマルチカルチュラルな音楽性を持ったバンドであった。そんな夕焼け楽団のデビュー・アルバムからの3作品がこのたびデジタル・リマスタリングを施して復活する。マスタリングを担当したのは、誰であろう久保田麻琴その人だ。

近年は、島根在住のシンガー・ソングライター、浜田真理子や熊野の異能のギタリスト、濱口祐自のアルバムのプロデュース・ワーク、阿波おどりのディープな魅力を掘り起こす〈ぞめき〉シリーズや沖縄音楽再発掘プロジェクト〈かなす〉シリーズを手がけるなどワーカホリック的活動ぶりで知られる音の錬金術師だが、この度のリマスター盤は彼の手によって見違えるほどの変身を遂げており、旧CDでは味わえなかっためっぽうふくよかでアナログライクなサウンドが楽しめる。今回はその3作品が生まれた背景などを語ってもらうべく、久保田にロング・インタビューを行うことに。まずはリマスター盤発売記念としてYouTubeで配信(すでに公開終了)された、3作品に多大な貢献を果たしている細野晴臣との対談の話から。

 


70年代の自分の作品は恥ずかしくて聴けなかった

――昨日の細野さんとの対談でオンエアしたリマスター音源は、オリジナルのハイレゾ・マスターをそのままマスターレコーダーから再生したとのことでしたが、その音の素晴らしさに視聴者はみんなのけ反ってましたね。

「オリジナル盤ではマスタリング作業をやってなかったわけですよ。ミックスしたテープを脆弱な感じでカッティングされて終わっていたっていう。そもそもアナログは無難に良い音がするけど、もうワンプッシュできたはずなんだよ。マスタリング・エンジニアの存在は80年代に入ってからようやく注目されるようになって、クレジットに〈mastered by〉と出るようになったんだけどね。夕焼け楽団の頃は、ミックスが終わるとマスターテープを持ってカッティングの工場に行ったんです。マスタリングという工程が省かれていたわけ。

で、実際に工場に行ったらただテープを渡してそれでおしまい。どういう作業が行われているのかも見せてくれない。マスタリング作業はブラック・ボックスで、われわれは出来上がったもので確認するしかなかった。そのときから何か音が小さくなっていて、音が悪くなったんじゃないか?と疑問はあった。でも音を上げてほしいと要求しても絶対に応えてくれない。もしレヴェルを上げて針飛びしたりしたら大ごとだから。いま外国人はシティ・ポップだなんだと盛り上がっていて、当時の日本のレコードの音は独特だと言ってるけど、そういうところも関係しているのかも」

――なるほど、夕焼け楽団のマスタリングに関しては忸怩たる思いがあったわけですね。

「で、87年の『MADE IN ISLANDS』では、夕焼け楽団の16チャンネルのマルチ(トラックレコーダー)を使ってジャマイカでリミックスしたんだけど、そのとき初めてマスターをニューヨークのマスタリング・スタジオ、マスターディスクに持ち込み、ハウィー・ウェインバーグの作業現場を見たんです。すごく驚いた。こんなことをやっているのかと。そりゃ音が良いはずだと。

たかだか3つぐらいのプロセッサーを通すだけなのにガラリと変わる。つまりスタジオでミックスされたテープの周波数帯域の彫刻を行うわけだ。近い機材は日本にも前からあるんだよ。でもマスタリングでどう使えばいいのか、ほとんどの人がわかってなかった」

――ジャマイカでのリミックスを収めた『MADE IN ISLANDS』と、89年にインドネシアで行ったリミックスを集めた『MADE IN ISLANDS vol.2』はリマスターされて、今回のボーナス・ディスクとして同梱されていますね(前者は『ディキシー・フィーバー』に、後者は『ハワイ・チャンプルー』に収録)。

「『MADE IN ISLANDS』の音はほぼ出来上がっているんだけど、やっぱり90年の音の問題があってさ。カチンカチンな音がするんだ、あの頃のプリンスのアルバムのように。ま、ジャマイカ/NYがそういう傾向だったから。でも70年代のホニャっとした音がよくもあんなに変化したなと思うけど。

87年作『MADE IN ISLANDS』収録曲“上海帰り”

ということもあって、ずっとマスタリング作業を行っていれば、70年代の夕焼け楽団に関してはもっと良くなるはずだという思いがあり、今回ちゃんとしたマスタリングをしたいというのがリイシューを了承する条件だったんだよね」

――しかし、今回のようにあの頃の作品とじっくりと向き合う作業ってこれまであまりなかったんじゃないかと。

「そもそもあまり自分のことをやらないから、私は。正直、作品と距離があり過ぎて、どこかよその誰かが作ったものをやっている感じだった」

――ずっと客観的な意識が働いていたわけですか。

「そうだね。そういえばこの演奏、ちょっと聴き覚えがあるな、ぐらいの感じ。この歌詞、けっこう良くできているじゃん、みたいな(笑)。とにかく長い間、70年代の作品は恥ずかしくて聴けなかったの。音が良くならなかったというフラストレーションもあったしね。カッティングのときのトラウマも含めて、どうしてもエンジョイできない。だからいまの自分があの頃に居たらなぁ……ってつくづく思うよ。あのとき自分が必要としていた存在に50年かけてようやくなれたなって」

――それはプロデューサー的な存在としてのお話ですか?

「プロデューサーであり、エンジニアとしてだね」

――3作品におけるプレイヤー、パフォーマーとしての久保田麻琴をいまの目で見て、どう映りますか?

「大したことはしていないですよ。っていうかね、あの音楽ってあの時代ならではの産物なんですよ。ベビーブーマーのオーディエンスたちがいて、多少ヒッピーかぶれだった彼らが求めていたアイコンになっていたって感覚があるな」

――そういう空気をひしひしと感じながら、音楽に向き合っていたんですか。

「周りの求めるアーティスト像に自然と近づいていったところはあるかもね。よって時代が変わってしまったら、さっさと退場するのみ。もともと音楽家になろうという気持ちはさらさらなかったわけだし。もちろん音楽は好きでしたよ。あと自宅で録音する作業も好きだった。ただ、まさか自分が表に立つなんてぜんぜん思ってなかったからね。拠り所だったのは音楽が好きだって部分だけ。

だから浜田真理子のような良い音楽家、あがた森魚のような唯一無二の声を持っている人が現れれば、私は喜んでヘルプする側へとまわる。60年代は選ばれた人しか歌手になれなくて、ゆえに良いものが残されやすかった。だけど団塊(の世代)以降が、俺も私もと叫び、多少のアーティスト気分を味わえてしまったこと、そこにアマチュアっぽい音楽産業が出来上がって混乱を招いたとも言えるな」