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ハワード・ジョーンズのデビュー40周年 × 来日公演を祝おう!

 40年……ハワード・ジョーンズがデビュー・シングル“New Song”をリリースした83年8月からそれだけの長い年月が過ぎていった。シンセサイザーなど当時のテクノロジーを駆使したポップなサウンドによってキャッチーなヒットを連発していた彼も、いまでは長いキャリアを誇るヴェテランのミュージシャンだ。ただ、そこでノスタルジックになりすぎる必要はない。かつて見た未来はいまもって過去ではなく、現在から見てもまだまだ追い越すことのできていない未来なのかもしれない。なぜなら、ハワードらが推進した80年代シンセ・ポップ~エレポップのリヴァイヴァル現象は繰り返されるたびに鮮烈な印象を世に残し、いつがいつのリヴァイヴァルと呼んでいいのか、もはやわからなくなるほど、その折々においてリアルタイムなトレンドのひとつとして時代のカラーを作っているからだ。

 

遅咲きのデビュー

 広い意味での80年代リヴァイヴァルは00年代初頭のエレクトロクラッシュ期からアンダーグラウンドな盛り上がりも含めて途切れることなく繰り返されている印象ではあるが、ここ数年はメインストリームのポップ・シーンにおける流行ぶりが顕著で、そうした近年の盛り上がりを作り出したのは、いずれも2020年春のパンデミックによるロックダウン期に前後してビッグ・ヒットになったウィークエンドの“Blinding Lights”とデュア・リパの“Physical”などということになるだろう。特に前者の疾走感に溢れた軽やかなシンセ・ポップ作法はハリー・スタイルズの“As It Was”(2022年)に受け継がれ、その破格の成功も手伝ってブームはまだまだ終わらなさそうだ。

 もちろん、ハワード・ジョーンズという存在が必ずしもそうしたブームから敬意を真っ当に受け取っているかどうかはまた別の話だが、一方では「ストレンジャー・シングス 未知の世界」など過去の音楽を魅力的に活用するコンテンツを通じての恩恵は大きいようで、同作で使用された“Things Can Only Get Better”(85年)はストリーム数を急激に伸ばしたという。そのように世間や未知のリスナーと自分の音楽を繋ぐ導線が見えてきたこともあって、彼自身のモチヴェーションが近年ググッと上がっているのは間違いなさそうだ。

 55年生まれのハワード・ジョーンズことジョン・ハワード・ジョーンズは、イングランドはサザンプトン出身で、9歳のときに一家でカナダに移住して育っている。もともと幼い頃からピアノのレッスンを始めていたというが、カナダではラジオを聴いてザ・フーなどのロックに夢中になっていたそうだ。英国に戻ってからはプログレに傾倒してウォーリアーなるバンドを結成し、72年にはアセテート盤を自主制作している。その後はマンチェスターの音楽大学でクラシック・ピアノを学びつつまたバンドを結成して活動するなどしていた。パンクの流行を経てニューウェイヴの時代が来ると、ハワードはオーケストラル・マヌーヴァーズ・イン・ザ・ダーク(OMD)のようにシンセサイザーを活用したサウンドに興味を移し、ソロでのパフォーマンスへ意識を傾けていくことになった。やがてロンドンへ移住したハワードはライヴを行いながらデモテープ制作に励んで浮上へのチャンスを窺うことになる。そして83年、BBCのラジオで“New Song”がオンエアされたことが反響を呼び、トントン拍子でワーナーとのメジャー契約に至る。

 そうやってコリン・サーストン(デュラン・デュラン他)のプロデュースによってリリースしたデビュー・シングル“New Song”はいきなり全英3位まで浮上する大ヒットに。セカンド・シングル“What Is Love?”はさらに全英2位まで上昇し、すっかりブライテスト・ホープとなった彼は翌84年にファースト・アルバム『Human’s Lib』をリリースして見事に全英No.1を記録。カルチャー・クラブやデュラン・デュラン、ワム!らが第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンを展開していた時代の空気にも乗って、ハワードもアメリカなど海外で人気を獲得していく。その熱が飛び火した日本でもいわゆる洋楽スターとしてアイドル的な人気を博したようで、このたびコンパイルされたベスト盤『Japanese Singles Collection -Greatest Hits-』にはそんな時代の熱気と勢いが余すところなく封入されているというわけだ。

HOWARD JONES 『ジャパニーズ・シングル・コレクション -グレイテスト・ヒッツ-』 ソニー(2023)

 勢いは止まらず、85年のセカンド・アルバム『Dream Into Action』は全英2位に加えて全米でもTOP10入り。シングルも英米の両方でヒットすることになり、なかでも先述の“Things Can Only Get Better”は全米5位、フィル・コリンズとヒュー・パジャムを迎えて再録した“No One Is To Blame”も全米4位に輝き、アメリカでも人気者となっている。ただ、商業的な意味ではそこがピークだった。アリフ・マーディンにプロデュースを委ねた86年の3作目『One To One』は全英10位、89年の4作目『Cross That Line』は全英64位……とチャート成績は徐々に後退し、92年の5作目『In The Running』とベスト盤のリリースを最後に彼はメジャーを離れることになる。