©Caterina Di Perri / ECM Records

彼女は矛盾だらけ。

 〈She is natural.〉と評されて、力みのない、適応能力に恵まれた、飲み込みの早い才女なんだと受け取った。弊誌の取材でジャズアーティストの故菊地雅章氏(以下プーさん)がそう形容したのはカーラ・ブレイという作曲家/編曲家でオルガン、ピアノを主に演奏するアーティストだった。

 そのプーさんが初のピアノソロアルバム『アタッチド』(’89)の冒頭に選んだのは、彼女のメランコリックな“サッド・ソング”だった。この曲を書いたカーラの訃報が届いたのは昨年の10月頃だったが、その時を境にプーさんが演奏するこの曲の静かな悲しみに、刺すような痛みが加わり、いつにも増して簡潔な旋律が身に沁みるようになった。

 彼女が他界したことは、ECMのニュースレターで知った。このレーベルは立ち上げ当初から、カーラと当時のパートナーであるマイケル・マントラーが主催するレーベル、WATTと互いに欧州と欧米の音楽を交流させてきた同胞だった。それぞれ、世界がラディカルに振れた60年代に青春を謳歌し、そうした人々が表現の場所を求めて行き交った。その頃ジャズは、後期ジョン・コルトレーン、オーネット・コールマン、アルバート・アイラーの時代だったし、クラシックではグレン・グールドのバッハが響き始め、ボブ・ディランやビートルズ、フランク・ザッパと、あらゆる音楽は自由、解放の力を世界に供給していて、彼女も彼らも、その力に身を任せた。

 カーラは、高校を中退してすぐ、ローラースケーターに憧れてニューヨークに向かう。スケーターからジャズの作曲家への転向がどうして起きたのかは謎のままだが、タバコ売りとしてジャズ・クラブ、バードランドで働き、毎晩出演するジャズ・ミュージシャンの演奏に耳を傾けた。特にカウント・ベイシー楽団は、「他の誰よりも聴いたし、それは教育だったのよ」(A)と述懐している。エリントンや最晩年の生演奏を聴いたチャーリー・パーカーの音楽は、当時の彼女には、解せない音楽だったようだ。カーラはすぐに受け入れられない音楽があったとしても聴き続けることで理解するようになったという。「音楽家としての条件を満たす以前の私は、とても優れたリスナーだった」(A)と語る。

 やがてNYで、彼女の最初の夫、ピアニスト、ポール・ブレイと出会う。まもなく移住したLAで、彼女の音楽すべてに影響を与えたと言うオーネット・コールマンと知り合い「そもそも、音楽は音符以上のものであるべきだと思っていた。単純にとても(補筆:オーネットのように)音楽的な人というのがいて、そういうことは分かるのよ。素晴らしい演奏ができる以上のこと。とてもいい耳を持つようなことなの」(A)と感じた。

 そしてその出会いが、“アイダ・ルピーノ”(’63)をもたらした。(アルバム『クローサー』に収録)ポールの求めに応じて書いていたうちの一曲だったが、カーラの作曲家としての〈natural〉な素質を知らしめた初期の名曲のひとつとなった。この曲が書かれた10年後、ポールは再びこの楽曲を取り上げて、ソロ・ピアノによる音楽の可能性を広げ、キース・ジャレットやプーさんに多大な影響を与えた名盤『オープン・トゥ・ラヴ』(’73)をリリースする。

 しかしこの時期まだ、カーラ・サウンドは存在していない。自身の楽曲を彼女がオーケストレーションした音楽が登場するのは、二番目の夫マイケルと始めたWATTの前身、ジャズ・コンポーザーズ・オーケストラ・アソシエーション(以下:JCOA)からリリースされた『エスカレーター・オーヴァー・ザ・ヒル』だった。詩人であり、アルバート・アイラーの『ゴースト』、ポール・ブレイの『フット・ルース』のプロデューサーでもあるポール・ヘインズがテキストを書いたジャズ・オペラだった。すでに当時ロック・オペラが存在した故、そう呼ばれたのかもしれない。しかしそれはジャズ・ロック・オペラだった。制作に三年を要し、キャストにはジャック・ブルース、リンダ・ロンシュタットにジョン・マクラフリン、それに映像作家のマイケル・スノウらが参加しジャンルを超えたカーラ・サウンドが響き始めた。