[短期集中連載]B.I.J.Records.の世界(第2回)
新たな〈ビッグ・イン・ジャパン〉を産む異色のレーベル、B.I.J.の哲学に迫る!!

 東京を拠点に、〈新たなビッグ・イン・ジャパンを作る〉というビッグな野心を実現するべく、エネルギッシュな活動を続けるレーベル/エージェンシー、B.I.J.Records。CDやLPをリリースするだけでなく、まだ状況が出来ていないバンドでも来日公演を敢行するなど、その手厚いサポートで所属アーティストたちからも支持が厚いそうです。そんなB.I.J.を特集する短期集中連載が前号よりスタート。この第2回では、レーベル主宰にしてバンド、tokyo honey trapのリーダーでもあるtetsu nclaren氏のインタヴューを掲載! 波乱万丈のキャリアから、どこまでもピュアな音楽への愛情までたっぷりと語ってくれました。


 

ジョニー・サンダースとの友情

――まずtetsu nclarenさんの音楽遍歴から教えてください。

「僕は65年生まれで、育ちは関西なんですけど、学生のときに組んだバンドで最初にコピーしたのはチープ・トリックでした。中学~高校のときはNWOBHM全盛期で、アイアン・メイデンやデフ・レパードとかがメジャーやったけど、自分がハマったのはシン・リジーのブライアン・ロバートソンとレインボーのジミー・ベインが結成したワイルド・ホーセズってバンド」

――最初はメタルだったんですね。

「はい、関西だとACTION!なんかが人気やった時期で。でも、メタルのテクニック至上主義が嫌で、大学入学の際に環境を変えたくて東京に出たんです。その頃、ちょうどインディーズ・ブームが起きていて、ラフィン・ノーズや有頂天なんかが華々しく活動していました。自分も一発当てようとバンドを結成して、そのバンドのロンドンでのレコーディング資金として、大学4年間で300万円貯めたんですよ。すごいでしょう(笑)? でも、結局いろいろあって録音できず強制送還されてしまった。バンドもそこで解散となり、89年に就職してサラリーマンになったんです」

――以降はしばらく音楽から離れていたんですか?

「リスナーとしては変わらずたくさん聴いていましたよ。でもバンドはやってなかったですね。91年にもっとも影響を受けていたジョニー・サンダースが亡くなったことも大きくて。ジョニーの死をきっかけに、自分も演奏を止めたんです」

――ジョニー・サンダースはどんなところが好きだったんですか?

「ニューヨーク・ドールズはリアルタイムじゃなかったんですけど、ジョニーのソロのアルバムを聴いて、スリーコードの簡単な構成で、演奏もヘロヘロなのにこんなにカッコよくなるんだ!と衝撃を受けました。85年の来日公演の際、ホテルまで行って一緒に写真を撮ってもらったんです。僕の着ていたジャケットをジョニーが気に入り、そのあと飲みに連れて行ってくれて。それから、なぜか親交が続いて、来日の際には便利屋みたいに使われていましたね(笑)。亡くなる前の最後のアルバム『Copy Cats』(88年)にはスペシャル・サンクスのところに僕の名前を入れてくれたんですよ」