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Number_i流のインダストリアル音楽

話を戻すと、うねるサブベースはスクリレックスがヒットを飛ばしていた頃の、いわゆるブロステップ(EDM化したド派手なダブステップ)を思わせなくもない。また、“GOD_i”のサウンドについて、てけしゅん音楽情報はカニエ・ウェストやアルカとの音楽性との共通点を指摘していたが、たしかにカニエの硬質なアルバム『Yeezus』やゴスペル作品『Jesus Is King』、アルカの奇怪なエレクトロニックミュージック、『Yeezus』にも参加していた電子音楽家ハドソン・モホークの作風などに近いものがある。

オルガンや生っぽいドラムなど聴き馴染みある楽音が適宜使われているが、不可思議な金属音や打音、電子音が全編で暴れ回っている。特に2分9秒あたりからの間奏はサブベースやコロコロと転がるような高音の電子音が絡まり合っており、非常に刺激的。音と音の隙間を活かした部分は多いが、1番の神宮寺が歌うバースで音を切って無音を強調するパートなどは極めて実験的だ。金属音やひずんだ電子音、ヘビーさ、ランダムさ――それらをひっくるめて、Number_iバージョンのインダストリアルミュージックが“GOD_i”だ、というふうに捉えることができる。

そんなサウンドを3人の声が背負っているわけだが、ボーカルにおいても聴きどころが多く、歌についても美と実験性の共存を指摘することができる。1番の岸の〈何十倍の価値が光ったステージ〉、2番のブリッジの平野の〈変えたい目〉は、それぞれ最後にオートチューンがかけられていて、奇妙な発声で引き伸ばされている。特に前者は、ヤング・サグやプレイボーイ・カーティなんかを思わせるようなヒップホップのアドリブ(合いの手)で痺れる。岸を〈Number_iのジョ-カー〉と呼びたくなる時があるが、そんな彼の遊び心やいたずらぶり、または野心が垣間見える瞬間だ。サビの平野による〈Ye We Go〉の、声をゆがめて叫ぶ様も鮮烈。その一方で終盤、岸の〈ねぇ未来の俺にお願いごと〉、平野の〈褪せた空にお願いごと〉と歌うパートは伸びやかに歌い上げている。このギャップの激しさにハッとさせられる。

 

自分を信じ、3人を縛るものからの自由を求めて

映像やビジュアルについても論じてみよう。“GOD_i”のミュージックビデオの公開に先んじては、曲名にちなむ4本のトレーラーが公開された。古いテレビ画面に映った3人を彼らが見ており、カメラが素早く引いていくと3人が振り返る、という「Trailer “G”」(間断なく続くノイズもあいまって、ホラー要素を感じなくもない)。そして、岸がスマホのスピーカーでビートを聴いて、3人がノっている後ろ姿を捉えたモノクロ映像の「Trailer “O”」。VHS的な質感が印象的な、複数の場面をコラージュした「Trailer “D”」。サングラスや黒ずくめの衣装、スマホのカメラに取り囲まれる3人の姿が強烈なインパクトをもたらす「Trailer “i”」。いずれも本編への期待を強く膨らませるものだった。

そうして発表されたMVは、岸をはじめ3人を映したVHS調の映像に〈何が真実か分からない時/心で真実を決めるしかない〉というスローガン的な言葉が重ねられたパートで始まる。その後、闇夜に包まれた車道で車が逆走する間を縫って、サングラスをかけて角付きの帽子を被った平野を見下ろすカットへ。自然体な衣装の冒頭部分と全員が黒衣に身を包んだクールでアグレッシブなパートは、かなり対照的だ。

ダンスパートや3人の動きが軌跡を残してサイケデリックアート化する後半部分、ラストの遊び心など、見どころは多々ある。しかし、各論でなく総論に向かうと、この映像作品のテーマは曲のメッセージである〈自分を信じること〉、それによって得られる〈自由〉ではないだろうか。MVでは時間を逆走したり、あるいは停止させたり、重力に抗って浮遊したりする映像が頻出する。彼らを縛る時間や重力といった不可抗力、周囲の視線や意見や評価(3人にスマホのカメラを向ける者たち)といったものから自由になることが映像化されているように見えるのだ。

そしてMVにしても曲自体にしても、岸が主役になってもいいのに、3人の見せ場やグループならではの魅力を重視している点が印象的だ。〈岸という個人がプロデュースした〉というよりも、〈Number_iの一員である岸がどんな曲を作ったらグループが輝くのか〉を優先して作られた曲である、という背景が透けて見える。