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ピアソラ、ジスモンチ、ヴィラ=ロボス、ニャターリ、そしてセルジオ・アサド――
南米ギター音楽の名作をアサド兄弟という史上最高のギターデュオで!
日本ではアサド兄弟の名で親しまれているが、発音も加味して正式なアーティスト名を表記すると、セルジオ&オダイル・アサーヂ。キャリア60年、ブラジルが生んだ世界屈指のギター・デュオが4月、20年ぶりに来日する。
セルジオ(1952~)が12歳、オダイル(1956~)が8歳の時、ショーロのバンドリン奏者だった父にギターを与えられ、家族でショーロの演奏を始めた。直後の1965年、サンパウロでテレビ番組に出演して、ショーロを代表する作曲家/バンドリン奏者、ジャコー・ド・バンドリンと共演した。
そのまま行けば、ショーロの神童デュオと騒がれただろうが、本格的な音楽の修行のために、父の手引きで師事することになったギターの先生、セゴビア門下のモニーナ・タヴォラがクラシック至上主義者だったため、2人はショーロなどのポピュラー音楽を演奏することを禁止されてしまった。しかしモニーナ先生からは、楽理や技術よりも〈歌うように演奏する〉ことの大切さを教わったという。アサド兄弟の音楽の、潤いに満ちた豊かな表情、クラシックとポピュラーの壁を取り払った自由な選曲と表現は、こうした少年時代の日々の体験を通じて培われたのだろう。
1977年、オーケストラとの共演でヴィラ=ロボス、ミニョーネ、ハダメス・ニャターリら、ブラジルの作曲家の作品を中心にデュオで演奏したファースト・アルバムを発表。1979年、プラハで開催されたインターナショナル・コンペティションで優勝。1983年、セゴビアの立ち会いによりパリでリサイタルを開催。名声は海外に広まった。
その後、ノンサッチ・レコードからアルバムがリリースされるようになり、アサド兄弟は日本でも話題の的となっていった。80年代のアルバムで演奏した楽曲の主な作曲家は、先にあげた人たちのほか、“タンゴ組曲”を作曲して兄弟にプレゼントしたピアソラをはじめ、ロドリーゴ、ヒナステラからエルメート・パスコアル、エグベルト・ジスモンチまで縦横無尽。セルジオも自作を発表、作曲家の才能を発揮するようになっていった。
1989年、アサド兄弟は初来日公演を行なった。楽しみにコンサートを待っていたら、招聘元の方から連絡があり、2人が会いたがっているという。全く面識がないのに……、と半ば緊張しつつ初対面したら、リオに共通の知人たち(僕が仕事したことがあるショーロの演奏家)がいて、彼らから名前を聞いていたとのこと。クラシックの分野で輝かしい活躍を続ける一方、かつてモニーナ門下だった時代のショーロ禁止令から解き放たれ、ホーダ・ヂ・ショーロと呼ばれるジャム・セッションに参加することもあった兄弟は、巨匠然としたところが全くない、ざっくばらんで開放的でノリの良い、サロンではなく街角のバーにいる音楽家のたたずまい。地球の反対側の日本にもショーロを演奏する音楽家がいることがとても嬉しく、その想いを伝えたかった、そう話してくれた。
バロックから南米の音楽まで網羅したコンサートも期待以上に素晴らしく、兄弟のコンビネーションは、まさに一心同体。ものすごく高度な音楽を演奏しているのに聴き手に全く緊張を強いない、風通しの良さがあった。アンコールでは〈ギター二人羽織〉も披露。あらためて、ブラジル人だよな~、と深く感じ入った。