古事記の「仁徳記」による一連の情景が描かれる〈枯野〉から聴こえてくるうた

 はじくと、すこしのこって、すぐ消える箏と和琴のひびきのうえ、雲のように複数の音がかぶり、ソプラノがことばとともにあらわれ、きえる。

 ことば(の意味)はたどれそうでたどれない。意味はとれなくとも、この列島のことばとわかるひびき。

 枯野、というが、松尾芭蕉ではない。古事記にある歌謡から。読みかたも〈からの〉。

 藤枝守のあたらしい『植物文様ソングブック』。

藤枝守 『藤枝守 枯野 植物文様ソングブック』 Milestone Art Music(2025)

 作曲家が声のための作品をまとめたのは、2005年、『今日は死ぬのにもってこいの日』以来。前のアルバムが北米インディアンのテクストにもとづいていたのとは大きく変わり、この列島の、古代のテクスト(古事記と万葉集)が用いられる。かなりの方向転換が、とおもわせられるものの、一筋縄ではいないのが藤枝守。丸田美紀と中川佳代子の奏する箏と和琴は、楽器がなりたった初源へのイメージと、この列島をかこみ、ひとときたりとも変わることなくつねに岸をあらいつづける海とを結びつける。曰く、「大樹から舟が作られ、そして、舟を燃やして塩が、さらに残りの木片から琴が作られ、その琴が〈さやさや〉と海藻が揺れるように響くという一連の情景が描かれている」、と。

 野々下由香里のソプラノは、ドラマティックにうたいあげるところから遠く、それでいてひろい音程をときにとりながら、淡々と。うつくしく、どことなくなつかしい、親しみのある声のうごきは、だが、作曲家が短からぬ歳月にわたり思考し試行しつづけている電位変化によっている。ヒトがつむぐものではなく、べつの生きもの、大気を吸って吐く植物のなかにあるうごき、変化を、外化したもの、ヒトが耳にすることができるように翻訳したもの、か。ここでの楽曲はといえば、作曲家が拠点とする福岡、「志賀島の海域に生息していた海藻の電位変化のデータをもとにしたメロディによって歌づけされた」らしい。

 もしかすると、藤枝守がひとりきりで幻視する音楽の初源は、西方ならぬ、南、南方をさしている。