28年をへて、いまこそ植物の声に耳を傾けるという態度を学ぶ時
まず気に留めておきたいのは、これが28年前の作品だということである。1994年、コンピュータの性能が向上し、(といっても価格は現在よりもはるかに高額だった)、インタラクティヴなメディア・アートが登場しはじめる、そんな時代だ。作品は、作者の制作のみによって完結せず、観客の関与によって成立する。そのような謳い文句によって、インタラクティヴ・アートは、作品をひとつのあり方に固定しない、コンピュータ時代のアートを標榜するものとなった。それでも、制作主体としてのアーティストは存在し続けたし、体験者としての人間の反応を誘発するよう促す作品が多く見られた。実験音楽の領域では、脳波音楽の実践もあり、体験者の生体情報などのバイオ・フィードバックを取り入れるインタラクティヴ・アートも実践されていたが、その中心には主体としての人間があった。
現在のように、ヴィジュアライゼーションやソニフィケーションなど、データ解析とそのプレゼンテーションに多様な方法が用いられるようになる以前、植物の声を聞く、というこの作品のコンセプトはたしかに異質なものだった。植物から抽出した生体電位変化を、音楽の演奏情報に変換し、MIDIによってシンセサイザーで演奏するというアイデアは、人間が介在できない、まさに〈植物中心主義〉な非常に斬新なものに感じたのだ。1日の時間の移り変わりの中で、植物の状態もまた変化している様子が、この作品からうかがえる。それらを、普段意識することのない、植物の状態の変化にときおり気づくような、アンビエント・ミュージックとしてとらえることもできるかもしれない。
この種の作品では、抽出したデータにたいして、どこか恣意的にメロディのようなものを当てはめてしまい、人間の感覚できる音楽に置き換えられてしまうことも少なくない。しかし、この作品では、ランダムな音の散らばりが、植物からの信号がそのまま音響化されているようで好感を持った。それは、植物に歌わせるというようなことではなく、いかに耳を傾けるかという態度の表れだろう。植物をインターフェースとして使用するだけなら、植物はただモノの替わりとして扱われているにひとしい。植物学者でもある銅金裕司は、直接的にコミュニケートすることのできない、人間の関与できない植物の世界に慎みをもって接しようとする。ここでは、藤枝守は作曲者というよりは、あくまでも媒介者であるといえるだろう。
いま、この作品がふたたび世に問われることの意味は、現在の人文知の潮流によってのみならず、それがいまこそ私たちに必要な態度であるということを認識することだろう。