我が師、湯浅譲二 追悼にかえて

 湯浅譲二という作曲家に出会ったのは、いまから50年ほどまえ。僕が音楽大学2年の頃だった。そのころ、その音大に多くの作曲家が集まりはじめ、伊福部昭、入野義朗、松村禎三、三木稔、そして湯浅譲二。まさに〈Composers’ School〉だった。そのなかでも湯浅ゼミは、70年代当時の前衛的な息吹というか、躍動感というか、20歳の何も知らない僕にも刺激がビンビンと伝わってきた。その湯浅ゼミには、外部からの来訪者が多く、いつも見たことのない顔がずらり。そのトゲトゲした雰囲気もなぜか楽しかった。

 実際に作曲のレッスンを受けるようになったのは、次の学年から。その影響は効果てきめんで、とたんにトポロジカルな時間軸にもとづくような作曲を始めた。そのまま研究課程に残り、ますます湯浅ワールドにどっぷり。そして、1981年のころ、湯浅譲二から「僕、カリフォルニア大学サンディエゴ校で教えることになるけど、きみ、そこで勉強を続ける気がある?」ときかれ、一瞬、なにのことかもわからず「はい、行きます」とだけ答えたかもしれない。それから、とにかく即席の英語の勉強をして、なにもわからずにサンディエゴへ。

 すでに湯浅譲二の周囲には学生たちが集まっていて、みんな「Yuasa-san」と呼んでいた。「Joji」と呼ばれるのは嫌だったようだ。それから6年あまりは、いつも青空の下でのんびりした学生生活。しばしば、エンシニータスというサンディエゴからやや北にある湯浅家を訪ねたり、夏休みの期間は、留守番などもしていた。とにかく、湯浅譲二はパーティが好きだった。よく学生たちを集めて自宅でパーティをやっていた。あるとき、モートン・フェルドマンがしばらく湯浅宅に滞在したことがあり、そのとき、パーティのためにフェルドマンが木箱に入った美味しそうなシャルドネを1ダース抱えて持ってきたのをよく憶えている。湯浅譲二からフェルドマンに習うことを薦められたのもそのときだった。

 そういえば、湯浅譲二は車が好きだった。それもカマロのような流線型のスポーツタイプ。たぶん、この流線型で風を切る体感や時間的な感覚がオーケストラ作品によく現れるあのグリッサンドの絡み合うエネルギーに転化したように思われてならない。

 7月初めにお見舞いしたのが最期となった。そして、湯浅譲二の訃報に察してサンディエゴの日々が次々と浮かんできた。折しも、8月のお誕生日に合わせて8月7日と12日に〈湯浅譲二95歳の肖像〉というコンサートが開催となったが、それを待たずに旅立たれた。そのときに聴いた“弦楽四重奏のためのプロジェクション”の軋みは、湯浅譲二の声のようであった。ほんとうに最期まで作曲に情熱を捧げ、そして未聴なる音響を目指したその徹底さは圧巻だった。長きにわたって、僕のような不肖の弟子とおつきあいいただいたことを感謝します。いまは、大学の研究室でのスナップ写真を眺めながら、そのときに語られた言葉を思い出しています。湯浅譲二先生、ほんとうにありがとうございました。