虚無に対峙する7人とわたしたち
それが如実にあらわれているのが、楽曲の後半です。
ラスサビの直前に差し込まれる桜木雅哉さんの〈急に、晴れたね〉の声色から察せられるのは、晴れたことによる、踊りだしたくなるほどの喜び、というよりはむしろ、厚い雲と雲とのあいだのほんのすこしだけ光が射したような、まだ不安が心を巣食っているような不安定な状態です。それはサビの〈蒼穹のスポットライト〉という歌詞からも、そのイメージが浮かび上がります。
さらにいうと、これまで、あまりに(途方もないような長い期間)雲に覆われていたものだから、この晴れ間をいまだ信用することができていない、いわば警戒心が解けていない、猜疑心に囚われた状態であるようにも感じます。
また、原因は自分にある。の楽曲におけるバックコーラスのほとんどは武藤潤さんが担っていて、“ニヒリズムプリズム”の前半はいつも通りそうなのですが、ラスサビでは事情が異なります。7人によるユニゾンの後ろに重なるクワイヤは彼のきらびやかな歌声ではなく、くぐもった重たいものです。それは彼らが眼前に立ちはだかる〈虚無〉に対峙する姿を象徴しているかのようです。
そしてその〈虚無〉はなにも彼らの眼前にのみ立ちはだかっているのではありません。わたしたちの眼前にだって同じように立ちはだかっています。
転調が表すもがきと心の揺らぎ
それでは原因は自分にある。はわたしたちにどのような行動を提案しているのか。
わたしはリフレインされる〈(虚無虚無虚無虚無 さあどうしたい)〉という言葉に注目しました。
原因は自分にある。はわたしたちに提案するのではなく、ただ問いかけています。それは突き放すようにして、ではなく、彼らだって同じ問いのなかでもがき続けているから。
楽曲の構成に目(耳?)を向けると、Aメロ/サビの同主調転調をはじめ、転調がいくつもあることが印象的です。この調性の揺らぎはいとも容易く移ろってしまう、わたしたちの心情のメタファーです。
かつて、宮沢賢治は「春と修羅」という詩(こちらもいまさらあえて紹介する必要もないほどの大名作ですが)で、各行の縦の位置をずらし、ぐねぐねとさせることで揺らぐ心情を表現しました。“ニヒリズムプリズム”は楽曲構造そのものによって揺らぐ心情を描いているのだ、と理解しました。
“ニヒリズムプリズム”というタイトルも非常に示唆に富んでいます。わたしとしては、わたしたちが〈虚無〉と対峙するにあたり、彼らなりに分解して提示してくれたものである、と解釈しました。
〈いかに生きるか〉という人間の根源的な問い
次に『文藝解体新書』全体に目を向けてみましょう。
原因は自分にある。は『文藝解体新書』でなにを主張しているのか。
それを考える手がかりとして、本作でインスパイアされた文学作品から読み解いてみました。
梶井基次郎「蒼穹」、太宰治「走れメロス」、夏目漱石「こころ」、遠藤周作「沈黙」。
これらの作品に共通しているのは、ある大いなる問いです。
いかに生きるか。
この問いはソクラテスの時代から繰り返し問われ続け、未だ現代にも通ずる(そして未来永劫決定的な答えが生じ得ない)ものです。
原因は自分にある。は、これらの文学作品を単に参照するのではなく、それらをもはや解体し、現代に生きるわたしたちに問いかけています。
“ニヒリズムプリズム”においては、虚無に対峙する姿を、“疾走”においては、敗北を拒み、燃え尽きるまで疾り続ける姿を、“愛無常”では、だれかを裏切ってしまう、そればかりか自らすらも裏切ってしまう運命だったとしても、愛から逃れることのできない姿を、“Silence”では、沈黙する〈君〉に対し、煩悶し続け、ノイズやバグとなってでも〈君〉に残っていたいという、未練を断ち切ることのできない人間臭い姿を提示することで、わたしたちに〈いかに生きるか〉について自問自答することを要請しているのではないでしょうか。
あなたは、どう生きるのか。
原因は自分にある。がとうとう人間の根源的な問いに足を踏み入れたこと。これが『文藝解体新書』が衝撃的な作品である、と表現した理由です。まだ平均年齢22歳とかですよ!? ガチで!?
今後、さらに成長した彼らがどのような作品をわたしたちに届けてくれるのでしょうか。いまから楽しみでなりません。