1979年の公開から47年の時を経て、この秋4Kデジタルリマスターで蘇った映画「太陽を盗んだ男」。鬼才・長谷川和彦監督がメガホンを取り、沢田研二と菅原文太が死闘を繰り広げる伝説的傑作のリバイバル上映は当初、2026年10月16日から2週間限定の予定だったが、満席が続出するなど大きな反響を呼び、異例の上映延長が決定した。一体、何がこれほど観客を熱狂させているのか? ライターの桑原シローに本作の奥深さを解説してもらった。 *Mikiki編集部

70年代、荒野と化した日本映画界に現れた長谷川和彦
永遠の型破り。現在4Kデジタルリマスター版が公開されている映画「太陽を盗んだ男」のことであり、また、このフィルムを世に送り出した映画監督、長谷川和彦のことである。荒唐無稽な嘘と鋭利なリアリティーが背中合わせとなったシナリオといい、画面の隅々にまでみなぎる役者やスタッフの途方もないエネルギーといい、とにかくあらゆるものが規格外。常識を蹴散らし、制御不能な勢いで突き進むその破壊力は、昨今の日本映画ではなかなかお目にかかれないもの。こんな映画がかつて存在したこと自体が奇跡であり、もう二度とこんな作品は生まれないだろうと思わずにはいられないわけだが、それはこの無謀な企てを現実のものにした生みの親、長谷川の存在にもそのまま当てはまる。
2026年1月31日、80歳でこの世を去った長谷川和彦。愛称はゴジ。70年代に頭角を現わした映画監督のなかでも最重要人物のひとりで、映画制作システムが崩壊しつつあった時代、まさに荒野と化した日本映画界にその宿命を背負うかのように登場した。
まずは脚本家として、日活ロマンポルノの傑作のひとつ「濡れた荒野を走れ」、「青春の蹉跌」や「宵待草」といった神代辰巳監督の代表作、3億円事件をモチーフにしたテレビドラマ「悪魔のようなあいつ」など注目作を次々と手がけて頭角を現わし、1976年にみずからメガホンを取った処女作を発表。それが中上健次の小説「蛇淫」を脚色した「青春の殺人者」である。今村昌平がプロデュースを務め、水谷豊と原田美枝子という若手俳優を主演に迎えた本作は、どこを切っても鮮烈な血が噴き出すような痛々しくも衝撃的な青春映画で、その年の〈キネマ旬報ベスト・テン〉でトップの座を射止めるなど、いきなり高い評価を獲得、新たな時代の幕開けを予感させた。




役者ジュリーの大きな転換点
そんな新進気鋭の監督が放った2作目こそが、異色の娯楽活劇「太陽を盗んだ男」である。お話はいたって単純明快。中学教師が原子力発電所に不法侵入してプルトニウムを強奪し、狭いアパートの一室にこもり、自力で原子爆弾を製造。その途方もない武器を手に、国家を相手取って脅迫を仕掛けるわけだが、はたしてその目論見は成功するのか? 小難しい考察が入り込む余地などないまさに問答無用のストーリー。そこに込められた尋常ならざる毒は、仮タイトルとしてつけられていた〈笑う原爆〉からも察せられるだろう。
国家を手玉に取るとんでもない男、城戸誠を演じるのは、当時のトップスター、沢田研二。「悪魔のようなあいつ」をはじめ、「魔界転生」「ときめきに死す」など数ある出演作のなかでも、本作を役者ジュリーの大きな転換点、また最高峰だとする認識も根強く、スターとしてのイメージを鮮やかに裏切り、俳優としての新境地を切り開いた作品という評価が定着している。
社会に恨みを抱いたマッドボンバーにも見える城戸だが、その実、どこにでもいそうなごく普通の優男でもある。得も言われぬ孤独を抱え、どこかシラけた空気をまといながら、日常に溶け込んでいる。そんな男が途方もない力を手にした途端、世界を相手に大それた冒険へ乗り出すわけだが、一体何を成し遂げたいのか、本人にもよくわかっていないように見えるあたりが興味深い。
無敵の武器を手にした戸惑いと虚無、そして、何かが変わるかもしれないという漠然とした期待。何かを成し遂げるために原爆を作るのではない。原爆を作ればそこから何かが始まるかもしれない。そんな倒錯した発想が、城戸という男の本質を言い当てているわけだが、大胆不敵な行動の裏に潜む空虚さをうつろな目の奥に漂わせることができたのは、ジュリーならではの表現力のなせる業だろう。
放射能に汚染され、心身ともに追い詰められていく城戸は、原爆を作る加害者であると同時に、その力に翻弄される被害者でもある。大胆不敵でありながら繊細で、国家を破滅に追い込む力を手にしながら、どこにも行き着けない男。その危うさがジュリーの存在感と見事に重なっている。ところで企画段階には〈日本対俺〉というタイトル案もあったというが、あまりに大きな敵を相手に孤独な闘いを挑む城戸の姿は、まさにその言葉を文字どおり実践するかのようだ。
好敵手・菅原文太の凄まじさ
そんな城戸の好敵手となるのが、菅原文太演じる山下警部である。実直で執念深く、何があっても引き下がらないこの鬼警部。「県警対組織暴力」などで見せた刑事像ともまた異なる骨太で圧倒的な存在感があるが、とにかくタフという表現では甘っちょろいほどの不屈ぶりで観るものを圧倒する。どこか現実から浮遊するようなジュリーに対して、地面を踏みしめるような重さで立ちはだかる文太。そんな対照的なキャラクターふたりによる熾烈な死闘シーンは、日本映画史に残る名勝負だ。
それにしても、太陽の国の未来を背負わされた男としてそう簡単に死ぬわけにはいかない文太の意地、しぶとさといったら。その覚悟を文字どおり身体で体現するかのように、ヘリコプターにつかまって宙を舞い、車の大爆発に身をさらす彼の体当たりのアクションこそが本作の最大の見どころだと信じて止まないファンも多いんじゃないか? また、ふたりの生き方とそれぞれが背負っている歴史などの違いを鮮明に浮かび上がらせる井上堯之のスコアも実に秀逸だ。緊迫感をあおりながらときに哀感をにじませる音楽が、壮絶な衝突場面にもうひとつの奥行きを与えている。
そもそもこの映画が提示するもの、その姿勢自体がロックなのである、とそんなふうに捉えている支持者の数はきっと少なくないはず。実際にボブ・マーリーの“Get Up, Stand Up”が効果的に用いられ、ローリング・ストーンズの存在が物語を動かす重要なモチーフになるなど音楽の使い方にもロック的な感覚が息づいていて、単なるBGMとして添えられるのではなく、登場人物の衝動や物語の展開と結びつき、映画全体を突き動かすエネルギーの一部となっているのだ。
それに、シリアスな緊張感のなかにコミカルな演技や軽妙なやり取りを織り交ぜるなど、シャレにならないヘビーさとふざけているとしか思えない大胆さを同居させる長谷川の演出方法。企画段階にあった〈プルトニウム・ラブ〉などという毒気たっぷりなタイトル案なども含め、深刻さにひれ伏すことなく笑い飛ばすようにして突き進むその無鉄砲さ、はたまた相反するものを力ずくでひとつの画面に押し込んでしまうその破天荒な感覚もまたどこかロック的といえまいか。
不謹慎という批判や抗議に対して……
被爆国が原爆を題材にしたエンターテインメントを作るというあまりにも無謀な試み。題材が題材だけに、不謹慎きわまりない、だの、被爆者やその関係者への冒涜ではないか、といった批判が巻き起こったとしても不思議ではない。いや実際のところ、当時批判は実際に巻き起こっており、映画の内容に抗議する活動団体が長谷川のもとにやってきたこともあったようだ。
ここで触れておきたいのが、長谷川自身の生い立ちである。1946年生まれの彼は、原爆投下から2日後に広島市へ入った母親の胎内にいた。母親はそこで放射線を浴び、長谷川は胎内被爆者、いわゆる被爆2世として生まれたのである。その抗議団体が彼に詰め寄った際、長谷川が取り出した特別被爆者手帳を目にした途端、相手がすごすごと退散したというエピソードはなんとも痛烈だ。
「原爆の被害に泣く映画はそれまでにも数多くあったが、原爆を題材に笑う映画はなかった」と彼はそんな趣旨の発言を残しているが(DVDの特典映像より)、原爆をタブーとして遠ざけるのではなく、あえて思いっきり笑い飛ばすことでその不条理に別の角度から切り込んでみせる。そこには被爆2世としての生い立ちと、社会の常識や権威におもねらない反骨精神が色濃く反映されているのではないか。だからこそ本作は荒唐無稽な娯楽作にとどまらず、鋭い批評性と簡単には割り切れない重みを備えた作品となっているのだろう。
脚本・原案を手がけたのは、「タクシードライバー」や「ローリング・サンダー」で知られるポール・シュレイダーの実兄、レナード・シュレイダー。もともとは毒のあるライトコメディーとして構想されていたものを、長谷川は自身の反骨精神を反映させ、重喜劇へと仕立て上げた。ところで、シュレイダーはシナリオを練るにあたり、ゴジに「ゴジラ」を重ね合わせていたふしがあったという。水爆実験によって目覚めさせられたゴジラと、原爆の記憶を背負いながら、映画という手段で世の中に挑みかかるゴジ。破壊のイメージを背負わされた存在でありつつ、同時に時代の矛盾を体現する存在でもあるという両者の姿がどこかでダブって見えたのかもしれない。
違法すれすれの撮影にしか宿らない迫力
あまりにヤバい撮影のやり方が祟って警察の御用になってしまう助監督がいたり(その被害者は、当時まだ大学生だった巨匠・黒沢清だ)、過酷さに音を上げてスタッフが何人も逃げ出したりするなど、映画自体に負けず劣らずアナーキーだった撮影現場は、まさにゲリラ戦と呼ぶに相応しかった。
首都高速道路でのカーチェイスをはじめ、日本橋のビル屋上から一万円札をばらまく場面、バスで皇居前広場に乗り込む場面、さらにはジュリーが国会議事堂に潜入する場面まで、許可が下りるはずもない場所で次々と撮影が敢行されているのだが、そんな危険な状況に気分が高揚してか、映画のために運転免許を取ったばかりのジュリーが、大胆なカーアクションに挑んでいる点にも驚かされる。何もかもが無茶苦茶で、何もかもが自由。正確には、不自由さのなかから無理やり自由をこじ開けていったのだろう。不可能の連続を可能に変えながら、違法すれすれの撮影にしか宿らない迫力をフィルムに焼き付けていく。
さまざまな障壁を蹴散らしながらフルスロットルで疾走する、そんな「太陽を盗んだ男」は公開当時、興行的には大ヒットに至らなかったものの、時代を経るごとに評価を高めており、「キネマ旬報」創刊100年の特別企画〈1970年代日本映画ベスト・テン〉でみごと第1位に輝いている。それに公開時からシネフィルからの評価はすこぶる高く、次作に期待する声も高くあがったものだが、長谷川はこれ以降1本も監督作を発表しないまま47年もの歳月を過ごし、今年空の向こうへと旅立ってしまった。
ゴジと村上龍の幻のタッグ
そんな彼が晩年までこだわり続けた企画が、〈連合赤軍〉を題材にした大スペクタクル映画。何度も実現に向けて挑戦したものの、ついに着手するまでには至らなかった。時折メディアに顔を出すと、まったく衰えない気力を見せ、いつでも映画を撮る準備はできているといった趣旨の発言でファンを喜ばせたものだった。だからこそ、いつかかならずあの途方もないエネルギーをふたたびスクリーンにぶつけてくれるはずだ。そんな期待が消えることはなかっただけに、歯がゆさもひとしおである。
メガホンを握ったガキ大将はなぜ映画を撮らなかったのか。いや、撮れなかったのか。もうじきわれわれの前に姿を現す長谷川の晩年の13年間を追ったドキュメンタリー映画「GOJI 映画監督 長谷川和彦」が、その答えを探る手がかりとなるに違いない。一周忌となる2027年1月から全国で順次公開されるということなので期待して待ちたい。
そういえば、先ごろ村上龍の訃報に触れた際、あらためて胸をよぎったのは、形にならなかった彼とゴジのタッグのことだった。「限りなく透明に近いブルー」で文壇に登場したばかりの村上はゴジと親交を深め、彼が監督する映画のためにいくつもの脚本を提出したものの、すべて採用には至らなかった。「太陽を盗んだ男」の制作初期に村上が関与していたという話も残っているし、もしもふたりの才能がひとつの映画として結実していたなら、一体どんな作品が生まれていたのだろう。そんな夢想が尽きない一方で、実現しなかったことへのやりきれなさも募る。
しかし、縦横無尽に暴れ回るゴジの映画魂を焼き付けたフィルムがいまもこうしてスクリーンのなかで生き続けているってことを、4Kデジタルリマスターでよみがえった名作が改めてしっかりと教えてくれたではないか。常識なんか蹴散らせ、時代の枠組みに収まるな、という挑発の声を真正面からしっかりと受け止める作業は、これから先も変わらず続いていくのだろう。
MOVIE INFORMATION
太陽を盗んだ男/4Kデジタルリマスター
2026年10月16日(金)より大ヒット上映中 ※上映延長決定!
キャスト:沢田研二、菅原文太、池上季実子、北村和夫、神山 繁、佐藤 慶、伊藤雄之助、風間杜夫、西田敏行、水谷 豊
監督:長谷川和彦
製作:山本又一朗
プロデューサー:伊地智啓
原案:レナード・シュレイダー
脚本:レナード・シュレイダー、長谷川和彦
撮影:鈴木達夫
照明:熊谷秀夫
美術:横尾嘉良
録音:紅谷愃一
音楽:井上堯之
編曲:星 勝
音楽プロデューサー:多賀英典
編集:鈴木 晄
助監督:相米慎二
製作:東宝株式会社 株式会社トライストーン・エンタテイメント
配給:東宝株式会社
上映時間:147分
製作国:日本
映倫:G
作品仕様:カラー/ビスタサイズ(1:1.85)
音声:モノラル
コピーライト:©1979 TOHO CO., LTD. / Tristone Entertainment, Inc.
公式サイト:https://taiyo-wo-nusunda-otoko-4k.toho-movie.jp/
GOJI 映画監督 長谷川和彦
2027年1月30日(土)より東京・ユーロスペースほか全国順次ロードショー
監督:森山智亘
プロデューサー:神野敬久、大島新、溝樽欣二
宣伝・配給:A PEOPLE
2027年/115分/カラー/ステレオ/DCP
©2027「GOJI 映画監督 長谷川和彦」製作委員会
■広島国際映画祭2026 クロージング上映「GOJI 映画監督 長谷川和彦」
上映日:2026年11月15日(日)
広島国際映画祭2026公式サイト:https://hiff.jp/
