聴き手の想像力を喚起し、異次元の世界へと運び、夢を見させてくれるチッコリーニ
同時代に生きていて本当に幸せだと感じさせてくれるアーティストがいる。その演奏を聴いていると、心の奥の感動という名の泉から水があふれ出し、心身が癒され、やがて涙が頬を伝い、胸がいっぱいになるのである。そんな稀有な感情を常に与えてくれるのが、アルド・チッコリーニだった。
彼は90歳近くになってもなお自身の演奏の新たな可能性を追求し、ひたすら練習を続け、聴衆と音楽を共有することを無上の喜びとしていた。今年の秋には90歳記念の日本公演が行われるはずだったが、2月1日にパリ郊外のアニエール=シュル=セーヌの自宅で亡くなってしまった。享年90。
なんと深い哀しみだろう、なんと残念なことだろう。チッコリーニは最近では頻繁に来日を続け、年齢を感じさせないエネルギッシュで情熱的なピアノを聴かせてくれ、その演奏から生きる喜びを与えられていたのに…。
チッコリーニは1925年8月15日ナポリ生まれ。5歳でピアノを始め、ナポリ音楽院のピアノ科と作曲科を卒業している。その名が広く知られるようになったのは、1949年にパリで行われたロン=ティボー国際コンクールのピアノ部門で優勝を遂げてから。世界各地で演奏活動を行うようになり、ヴァイオリンのジャック・ティボーとデュオも結成、室内楽の分野でも活躍した。のちにフランス国籍を取得し、パリ国立高等音楽院のピアノ科の教授として多くの弟子を育て上げている。
最後の来日公演は2014年6月のこと。杖をつきながらステージに現れたが、ピアノに向かうといつもながらの生命力あふれるみずみずしい演奏を披露し、作品に寄り添う真摯な演奏に会場は静まりかえった。感動的な演奏に触れることはもうできないが、彼は多くの録音を残してくれた。今回、「チッコリーニの至芸」として登場した7タイトルのリイシューは、チッコリーニの美しく力動感のある音色、快適で適切なテンポ、クリアな響き、絶妙のペダルなどが存分に発揮されたドビュッシーがメインを成す。これらは明晰で知的で作品全体を俯瞰する大きな目が備わった演奏。彼は自分を前面に押し出すことなく作品に寄り添い、あくまでも作曲家の意図に忠実に楽譜を深く読み込み、真意を伝えていく。
特筆すべきは、グラナドス、アルベニス、ファリャのスペイン作品が加わっていること。難曲で知られる《ゴイェスカス》と《イベリア》をチッコリーニはスペインの風土をただよわせて弾き進める。そのひとつひとつの曲から土の香りや乾いた空気、濃密な人々の気質、歴史と伝統、文化までもが浮かび上がり、かの地へと聴き手を自然にいざなっていく。
チッコリーニの最後の来日公演におけるアンコールの最後に弾かれたのは、ファリャの《火祭りの踊り~恋は魔術師より》だった。ここに収録されている演奏を聴くと、その全身全霊を傾けた演奏が蘇り、胸が熱くなる。
チッコリーニのピアノは、常に聴き手の想像力を喚起する不思議な力を有している。音楽から物語が見え、風景が浮かび、作品の内奥へと強烈な力で引き込まれるのである。作曲家のいいたかったこと、伝えたかったこと、表現したいことが音から立ちのぼり、全身が音に包まれる。なんという至福の時間だろうか。
たとえばドビュッシー。彼は多くの作品で絵画のような趣を生み出し、短い曲のなかでひとつの色彩や香りを描き、えもいわれぬ美しいエスプリを表現した。それらをチッコリーニは繊細に明快に、幾重にも音色とリズムを変容させ、鮮やかに高貴な面持ちで表現していく。その演奏は詩のようであり、戯曲のようでもあり、ときに彫刻のようでもある。
チッコリーニが編み出す美の遺産に全身が包まれると、次第に目を閉じて瞑想的な気分に浸るようになり、異次元の世界へと運ばれる。日常を離脱し、天上の世界でしばし夢を見る。チッコリーニはそんな贅沢なひとときをもたらしてくれる偉大な音楽家である。
チッコリーニの至芸
2015年2月1日、フランスの自宅で89歳の生涯を閉じたピアノの巨匠アルド・チッコリーニの作品7タイトルをリイシュー。すべて2009年に本人立会のもと行われたリマスタリングによる音源で。チッコリーニ自身も大変気に入っている。