東京のインディー・シーンの一部で熱狂的に愛されてきた韓国系アメリカ人ミュージシャン、ダニエル・クオンがニュー・アルバム『ノーツ』をリリースした。

彼の経歴はこちらの記事でも簡単に紹介しているが、Lampとの交流を契機に2008年に日本へ移住。日本では2010年にリリースされたセルフ・タイトルの初作や、2013年に謎の変名で発表した『Rくん』といったアルバム及びライヴ活動で注目を集めてきた。

そして、(先日惜しまれつつ解散した)森は生きているの岡田拓郎と増村和彦、牛山健、小林うてながゲスト参加し、主なベーシック・トラックのレコーディングとマスタリング・エンジニアリングをPADOK、プロデュースをダニエル自身が手掛けた新作『ノーツ』は、年間ベストが発表されはじめたシーズンに名乗りを上げる、詩情とクエスチョン・マークに満ちた一大問題作だ。

今回、Mikikiではダニエルのキャリア初となるインタヴューを実現。日本移住以前から彼と交流してきた音楽ライターの清水祐也氏を聞き手に迎えて、音楽性同様にアウトサイダーな本人の資質をたっぷりと掘り下げてもらった。 *Mikiki編集部

DANIEL KWON 『ノーツ』 Pヴァイン(2015)

 

イヴが禁断の実をかじる音で始まるイントロダクション“Fruit, Not Apple”に続く“Hop Into The Love Van”は、ビートルズの“The End”でポール・マッカートニーが弾くピアノと、同じリフで幕を開ける。

終わりから始まる物語――それはドアーズの“The End”で始まるフランシス・フォード・コッポラの映画「地獄の黙示録」のようでもあるし、日本で録音された駅のアナウンスや子供の声といったフィールド・レコーディングがもたらす異化効果は、(テリー・ギリアム「12モンキーズ」の原案になった)短編映画「ラ・ジュテ」で知られるクリス・マルケルが、80年代の日本で撮影したドキュメンタリー「サン・ソレイユ」も連想させる。壮大なバッド・エンド“Holy Smokes!”の後に流れ出す“Yours Truly,”で岡田拓郎が弾くペダル・スティールの空しいほどに甘美な響きは、それこそテリー・ギリアムの「未来世紀ブラジル」のエンディングで流れるスタンダード・ナンバー“Brazil”のようだ。

「アルバムじゃなくて映画、サウンド・ムーヴィーだと思って聴いてほしい」――そう語るダニエル・クオンと筆者が知り合ったのは、いまから8年前。当時まだアメリカ在住だった彼が日本にやって来て、(大島渚の映画「絞死刑」に登場する在日韓国人死刑囚に由来する)〈Rくん〉名義での実験的な作品を経て、ニュー・アルバム『ノーツ』をリリースするまでに至る道のりも、ちょっとした映画のようだったと言えるのかもしれない。

そういえば大瀧詠一が亡くなった日(2013年12月30日)の前日、ダニエルと知人との3人で、はっぴいえんどの話をしたことを覚えている。亡くなる直前に大瀧詠一がリンゴを食べていたというのは単なる偶然かもしれないが、ダニエル・クオンという怪物から生み落とされたこの『ノーツ』という禁断の実について、本人に話を訊いてみた。

Lampから日本の70年代の音楽を紹介してもらって。〈久しぶりに、人間と友達になっちゃった!〉って感じ(笑)

――音楽を始めたきっかけは?

「お母さんがエンソニックっていうキーボードの会社で働いてて、その時に初めてエレクトリック・ピアノとか弾いたね。ペンシルヴァニアに住んでた時、7歳ぐらいかな? 小学校2年生の時に、先生の奥さんがピアノを教えてて。ちょっとヒッピーぽくって、ドアーズとか好きな人で(笑)。ポール・マッカートニーにウィングスとか。その時もビートルズは聴いてたけど、ドアーズはそこで初めて聴いて。まあ普通のアメリカのロック――オールマン・ブラザーズとかも紹介されたけど、(そちらは)全然興味なかった(笑)。あとなんだっけ、もうひとつのブラザーズ……ドゥービー・ブラザーズか(笑)。みんなブラザーズなのかなって(笑)。でもやっぱりポール・マッカートニーが一番デカイし、あとその頃はラジオだね。日本にもあると思うけど、70年代オンリーのプログラムとか、〈WMGK、マジック、102.9!〉みたいな、ダサいラジオ番組をずっと聴いてて。誰でもリクエストできるし」

――リクエストしたんだ?

「クイーンの〈Somebody To Love〉をリクエストしたら、ワム!のジョージ・マイケルのライヴ・カヴァーがかかって、〈ラ〜〜〜ヴ!!〉って(笑)。あのヴァージョンが、すごい流行ってたから(笑)。あとは学校で教えてくれたから、ヴァイオリンも弾いてた」

――ギターも弾いてたの?

「ギターはもっと後だね。高校生の時に初めて買って、ミシシッピ・ジョン・ハートとか、そういう音楽も大学に入って初めて聴いて。エミット・ローズも大学の時に聴いて結構インパクトがあった」

ミシシッピ・ジョン・ハートの65年のパフォーマンス映像。フィンガー・ピッキングの名手として知られる、68年没のブルース・シンガー

――ちょっと意外だけど、アウルズとかも好きだったんだよね?

「その頃(大学時代)はフィラデルフィアにレコード・ショップが結構あって、シカゴのインディーをすごくプッシュしてて。パンクやエモとか、そういう音楽も流行ってたけど、僕はシー・アンド・ケイクとかに興味があって。ジム・オルーク(と出会うの)はもうちょっと後だけど、『Eureka』のジャケットを見て、〈これ何だろう?〉って思ったな(笑)。アウルズはギタリストの人(ヴィクター・ヴィラリール)が好きだった。ファーストはスティーヴ・アルビニが録音してたし。その時はすごい元気だったね」

――え、自分が?

「いや、音楽の世界が。インディーとか、すごい元気って感じがした。自分はそういう音楽はあんまり聴いてなかったけど、みんなから紹介してもらって。〈チェックした?〉〈う〜ん……、でも、クイーンがいいかな〉みたいな(笑)」

アウルズの2001年作『Owls』。マイク&ティムのキンセラ兄弟を中心に、エモの重要バンドであるキャップン・ジャズのメンバーが再集結した初作

――でも(ダニエルの)ファースト・アルバムに入ってた“Quietly”という曲の、最初のデモ・ヴァージョンはポスト・ロックっぽかったよね。

「その時はシー・アンド・ケイクも聴いてたし、誰か友達は〈ヴァーサスみたいだね〉なんて言ってた(笑)」

2002年に録音された“Quietly”のデモ・ヴァージョン

――それで、確か2007年ぐらいにmixiで突然メッセージをもらったと思うんだけど。

「そうそう、その時はmixiでナンパ・メッセージとかしてたから(笑)」

――mixiは相手の入っているコミュニティーもわかるけど、ダニエルは日本映画のコミュニティーにもたくさん入ってたよね。なんでそんなに詳しかったの?

「mixiは友達から紹介されたと思うんだけど……」

――でも当時はまだアメリカにいたんでしょ?

「日本食のレストランで働いてたから、その時に寿司シェフとか、初めて日本人と会って。韓国人も結構いて、中国人、メキシコ人とか。前は本当に、友達はみんな白人やユダヤ系だったから。大学の時に留学生と初めて知り合って」

――はっぴいえんども知ってたよね。

「(職場に)ウェイターがいて、彼が『ガロ』みたいなコミックスとか紹介してくれて。つげ義春の『ねじ式』も初めて読んで〈これは何だろう?〉と思ったね。その時に偶然ネットでLamp(の染谷太陽)と知り合って、彼がもっと詳しくて、好きなものとか紹介してくれて。懐かしいけど、その時はピュアだったし、まだ(自分が)暗くなかったし(笑)。Lampからシュガーベイブみたいな、日本の70年代の音楽を紹介してもらったね。その時はわからなかったけど、結構インパクトがあったから、“Quietly”のギター・フレーズやアレンジもはっぴいえんどっぽくなったのかなって。やっぱりそれが音楽だよね。作る時に、これまで聴いた音楽が出るじゃない? 好き嫌いはあんまり関係なく」

2010年作『ダニエル・クオン』収録曲“Quietly”。上掲のデモ・ヴァージョンとの違いは歴然

Lampの2008年作『ランプ幻想』収録曲“雨降る夜の向こう”

――2007年に2回ぐらい日本に来て、Lampのメンバーと一緒にファースト・アルバムをレコーディングしたんだよね。

「そうだね。すごく嬉しくて、おもしろかった。その時はアメリカでいろいろあったから、〈久しぶりに、人間と友達になっちゃった!〉って感じ(笑)。見た目もそうだけど、あんまり僕みたいな人はフィラデルフィアにはいないから、アイデンティティーっていうか、キャラクターっていうか、あんまりみんなと合わなかった。大学の時はみんな〈パンク・ロック!〉とかそういう感じで、レコード・コレクターみたいな人はあんまりいなかったな。友達はみんなレコード・ショップの店員になっちゃって、(お店に行くと)〈あ、ダニエル!〉って(笑)。それは日本と一緒だね。名前は忘れちゃったけど、当時知り合った人がスタジオのベースメントを作る途中で、“Quietly”のデモは彼の部屋で録った。2002年ぐらいかな、すごい前だね。その時から4トラックのカセットMTRでたまに録ったりはしてたけど、アレンジの勉強にはなったかな。それから日本に来て本当のスタジオに行って、本当のエンジニアとミュージシャンを見て、スパイする感じで(笑)。僕の録音はコミュニティー・センターっていうか、病院みたいなところで録った。普通のおじいちゃんとか歩いてて」

――その後、日本に引っ越したのはいつ頃なんだったけ?

「忘れちゃった。いつだろう? なんかすぐには引っ越しできなくて、最初はひとりで(宮城県)石巻とかに住んでたこともあったし。その時は〈わ〜、おもしろそう〜!〉と思ってたけど、そうしたら超ビョーキになっちゃって(笑)。日本語も全然できなかったし、エスケープしたかったけど、お金を貯めて。日本に引っ越ししたいんだったら、お金を貯めないとダメだね。日本は住みはじめるまでがすごく大変。石巻を選んだのは最初に仕事のオファーがあったからで、意味はなかった。〈エスケープ? オーケー! ファースト・チケット・トゥ・イシノマキ!〉って(笑)。でも石巻(を選ぶの)は結構珍しいらしいね」

――そうだろうね。

「超カントリー。町が海に囲まれてて、山に登ったら全部見えるっていう。まあすごく良い人にも会って……石巻でザッパ・マニアック・ファンと会って(笑)。おじいさんじゃないけど、(当時)50歳ぐらい? よく彼の部屋に行って、一緒にご飯とか食べてたら家族から〈この人誰?〉って感じで見られて。彼の部屋はヤバかった(笑)。石巻に〈ラ・ストラダ〉っていうライヴハウスがあって、そこのパーティーで彼と会って。誰かのライヴが終わった後にみんなで鍋したりして、すごいディープなシチュエーション(笑)」

――当時からフランク・ザッパの『Cruising With Ruben & The Jets』が好きだって言ってたもんね。

「そうだね。〈Ruben & The Jets〉はアメリカで初めて聴いて、大学生の時にザッパを聴き直して、再発見した。マザーズの頃、69年の『Uncle Meat』はその頃にオリジナルLPを見つけて、楽しかったな。フィラデルフィアはレコードがすごく安くて、そこがNYとは違う」

マザーズ・オブ・インヴェンションの68年作『Cruising With Ruben & The Jets』収録曲“How Could I Be Such A Fool”。架空のドゥワップ・バンド、ルーベン&ザ・ジェッツを題材としたコンセプト作

――西荻窪に住むようになったのは?

「それは(仕事の)最初の契約が終わって、Lampともずっと連絡は取ってたし、その関係で西荻窪になった。その頃は勉強っていうか、まだ4トラック・カセットでずっと作っていて。そこからパソコンとかミキサーを買って、〈Rくん〉が始まって……一番暗い時期。『Rくん』の前はイギリスのシンガー・ソングライターのアルバムをすごく聴いてて、たまにライヴもしてたけど、そういう音楽が嫌いになっちゃってね。その時は学校で働いてたから、休み時間にずっとピアノを弾いてて、もう一回ピアノをやるようになった」

Rくん 『Rくん』 R(2013)

――Rくんの前にも〈シーモア〉とか、いろいろ名前を変えてやってたよね?

「それは本当に酔っぱらってて、いいかなと思って(笑)。意味がなかった。まあ、いつもそうかな(笑)。いつも間違えるね。『Rくん』も全然売れなかったし(笑)」

――でも今回、名義を本名でやろうと思ったのはどうして?

「本当はRくんでもいいと思うんだけど、レーベルから出すっていうのもちょっと関係あるかも。Rくんだと怪しすぎるから(笑)。でもやっぱり本名にすると、みんなにシンガー・ソングライターのアルバムだと思われるからどうかなって。日本語で情報が書かれるたびに、いつも〈韓国系! アメリカ人! SSW!〉みたいになっちゃって。このアルバム(『ノーツ』)はたぶんそういうイメージじゃないから。昔はいっぱいあったじゃない? リアル・ネームじゃなくて、そういうイメージみたいな。僕は本当にノー・ヒストリーだし、フロム・ノーウェアだから」