解釈する音楽・批評する映像・説明する言葉からたどる表現のいま

 音楽にかぎらず、あらゆる表現活動は、世に出た瞬間に作者から独立した道をたどりはじめる。もともと表現者の意図とそれを具体化する技術にはへだたりがあるのに加え、表現に対する反応は鑑賞者ごとに異なる。だから表現者と鑑賞者の、それぞれのずれを含んだ思いに、両方から支えられて表現は成立している。表現と作者の関係は再演によって更新され続け、表現と鑑賞者の関係も人により時代により異なる部分がある。誤解や曲解も入りこむ。その結果、表現と作者の関係が伝説で上書されていくこともなくはない。

渡辺亨 『プリファブ・スプラウトの音楽 永遠のポップ・ミュージックを求めて』 DU BOOKS(2017)

 渡辺亨の「プリファブ・スプラウトの音楽」は、パディ・マクアルーン率いるイギリスのポップ・グループの全アルバムをさまざまな角度から解説した本だ。彼らは1980年代から1990年代にかけて、ポスト・パンク時代のイギリスでそこそこ人気があったグループで、現在はパディのユニットとして存在している。商業的に大成功したわけではないし、「同時代の風俗や文化、流行に多大な影響を及ぼした」(本書による)グループでもないが、凝った作りの穏やかな音楽は、日本でも熱心な洋楽ファンに知られている。

 パディはふつふつと湧いてくるものを形にするだけでなく、他のさまざまな表現への関心を反映させて職人的に音楽を作ってきた。感情より知的な営みが勝る彼の音楽は、誰かとの一体感を求める試みというより、彼なりに世界を解釈する方法のように思える。

 「アルバムの副読本のようなものとして捉えてもらってもいい」と書かれているとおり、本書の記述は事実説明や紹介が中心だ。事実を補足するために、作品の説明だけでなく、引用されている原典や関係者についての解説も多い。取材時のエピソードもある。著者は「こうとも解釈できる」と書くことがあっても、断定はしない。本書を読む体験は、作者の意図と鑑賞者の受容が交差する透視図を眺めて、音楽とその解釈をめぐる知的なゲームに参加するのに近い。

小熊英二 『首相官邸の前で』 集英社インターナショナル(2017)

 小熊英二の「首相官邸の前で」は、東日本大震災と福島の原発事故を受け、2011年から2012年にかけて首相官邸前をはじめ、高円寺など各地で行われた脱原発をめざす抗議運動についての本だ。著者は抗議運動に参加する一方、その記録を残すことを重要と考え、YouTubeに公開された映像に関係者への取材映像を加えて同名の映画を作った。本書は、著者が映画を作った理由の説明、上映会での対談や観客との質疑応答、震災当時の日記、社会学者としての考察などから構成されている。映画のDVDもついている。あるいはDVDに本がついている?

 街頭での抗議行動を音楽や美術と同じ次元で表現と言い切ることにためらいをおぼえる人がいるかもしれない。ただし、両者の間に垣根があるとしても、その高さが年々下がってきていることに反対する人はいないだろう。抗議行動は音楽でいえばライヴにあたる。実際、デモではサウンド・システムを使ったラップや太鼓や管楽器による演奏がたくさん行われ、映像にもその光景が記録されている。“アメイジング・グレイス”と“ジョニーが戦場に行くとき”の2曲は、この映画のために録音されている。

 脱原発をめざす抗議行動の表現主体は延べ百万人をこえる参加者だ。YouTubeの映像はそのライヴ記録という表現。映画「首相官邸の前で」は、そのライヴ記録とインタヴューを構成した表現。DVDつきの「首相官邸の前で」は、抗議行動という表現の紹介と批評になっているという意味では、プリファブ・スプラウトの表現にとっての「プリファブ・スプラウトの音楽」にあたると言ってもいい。いや、抗議行動には再現性がないので、YouTubeの映像に記録された行動にとっての、というのが正確か。

 「実写には撮影者が意図していないことも映っていて、いろんな解釈ができるところがおもしろい」と本書で著者は語っている。それは渡辺亨が「優れた作品ほどさまざまな解釈を呼び起こす」と書いていることにも響き合う。二冊の本を読んで、解釈や批評の出発点にあらためて引き戻されるような気がした。