〈ブラジリアングルーヴマスター〉と呼ばれる音楽家、エヂ・モッタ。スティーリー・ダンなど往年のAORへの傾倒、山下達郎や大貫妙子をはじめ日本のシティポップへの愛情を隠さない彼が、5年ぶりの新作『Behind The Tea Chronicles』を完成させた。Mikikiはこれを記念して、彼の音楽を愛するミュージシャンや音楽評論家、識者など10名に〈エヂ・モッタと私〉というテーマのコメントを依頼した。エヂ・モッタへの愛を届けるのと同時に彼の作品を聴く際の優れたガイドにもなったので、ぜひ最後まで楽しんでほしい(掲載は50音順)。 *Mikiki編集部
イハラカンタロウ
自分がエヂ・モッタの音楽に初めて触れたのは2013年リリースのアルバム、『AOR』でした。内容を聴く前は〈タイトルがAORとはなかなか〉などと怪訝な気持ちで聴き初めたのですが、それは正に名前負けを知らない豪傑作な『AOR』でありました。そこから彼の音楽の虜になっておりますが、“Windy Lady”の素晴らしいカバーに感銘を受けたり(YouTubeで今でも観れます)、Instagramで自分のアルバムのプロモーション動画にコメントをくださったりと、心に縁深く印象が残っているミュージシャンの1人です。
新作『Behind The Tea Chronicles』もとても楽しく拝聴しました。
まず一聴すると、かなりプロダクションに凝ったサウンド志向なフュージョン・アプローチという印象を受けますが、何度も聴いている内にパーカッションの絶妙なズレや楽器のタメなど、音符の縦を意識し過ぎないようにしている印象を受けました。
そういった良い意味での〈ズレ〉というのは、殊更自分の好きな年代の音楽で言えば70〜80年代のアナログかつ人力な録音から生まれた副産物であるかと考えておりますが、DTM全盛時代の昨今、録り直しは容易ですし、時間的な制約があったとしてもソフト上でオーディオデータの切り貼りが可能ですので、彼はそういった〈ズレ〉を敢えて加えているのではないかと思います。それはファッションでいう〈外し〉であったり、フィルム映像における〈味〉のような、物事に遊びを持たせることと似ていると感じました。それからM-5、7、10など、猛者的AORリスナーでなくとも通して聴いた時にお腹いっぱいにならないよう、ベクトルを変えた楽曲が並んでいるのも本当に素晴らしいです。特に“Of Good Strain”、暗めのワルツという珍しいアレンジが彼の声とマッチしていて素敵です。
そういったクレバーな工夫の数々が、一見豪華で難解なフージョンに感じるこのアルバムを、素晴らしいポップス作品に仕上げているのではないかと思います。
また冒頭で挙げた『AOR』然り、今回のアルバムもアウトロにインプロビゼーション(ゴリゴリの書き譜かも知れませんが)的なアプローチがあるのも自分のようなサウンドを楽しみたい者にとっては嬉しく、親近感が沸きます。こういうアウトロ、僕だったら怖くて絶対フェードアウトにしてしまうのですが(そしてライブで演りづらくなる)、彼は楽曲にしっかりと末尾をつけていて、やはり尊敬します。
岩田由記夫
エルヴィス・プレスリーからリアルタイムでロックを聴き続けて来た。1960年代中期、ロックというジャンルが一般的になった。そして1970年代、ロックはジャンルが細分化されていった。1970年代後期頃からAORというジャンルが定着した。AOR~アダルトな方向性を持ったロック。正直言って最初は軟弱化したロックとしか思えなかった。それが聴き込んでいくうちにロックがコンテンポラリー化するのはある意味必然で耳馴染んできた。1980年代中期以降はAORは絶滅危惧種かと思えたが21世紀になると北欧を中心としてヨーロッパ中で人気が再燃した。それはデジタル・サウンドやヒップホップへのアンチテーゼとも思えた。
そしてインターネットの爆発的普及はミュージシャン達のAOR再発見に貢献した。AORをヨットロックと呼び始めたり、日本のシティポップも世界中から熱い視線を浴びるようになった。
エヂ・モッタの存在を知ったのは約20年前にさかのぼる。AORのコレクターともいうべき彼の生活から生まれる音楽は現代のAORそのものだ。ただAORを模倣するだけでなく素晴らしいメロディーとブラジリアンらしい味付けはエヂ・モッタならではの独自な世界を生んでいる。彼の名が広まるにつれインコグニートのブルーイや名ギタリスト、デヴィッド・T・ウォーカーなどとも共演するようになった。
もはやエヂ・モッタは新世代のAOR~ヨットロックの中心的存在になった。心地よくて聴くとホッとする。そして爽やか。エヂ・モッタは現代のAORシーンの巨匠と呼んでも差し支えないと思う。